カテゴリ: 村上市里本庄遺跡群

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過日紹介した内御堂遺跡の里本庄川を挟んで南側の丘陵地の山裾に展開する。

以前から古代の遺物包含地として周知されていたが、

ほ場整備事業の事前調査により古代の遺物も少量出土したが、

それに伴う遺構は検出されなかった。

むしろ、出土遺物の中心は13~15世紀の遺物が主体であった。

中世の遺物は、青磁、底部回転糸切りの珠洲焼壺、甕、片口鉢が出土し、

13世紀中葉~14世紀前葉には、地元笹神産の瓷器系陶器が出現し、

特に権兵衛沢1号窯(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/37030116.html)段階のものである。

瓷器系陶器には壺、甕が出土した。当該期には珠洲焼片口鉢、輸入陶磁器、白磁碗、

白磁皿、青磁碗がある。14~15世紀代になると珠洲焼鹸釮諒匕?、甕、壺、拘釮亮扈Ь栃匕?、

輸入青磁碗がある。日常品の木製品も多数出土した。

遺構は井戸、土抗、溝を主体とし、溝の中には区画溝と考えられるようなものも出土した。

他に建物の特定はできなかったが土抗が多数検出された。

本遺跡は13~16世紀初頭まで存続した集落遺跡で、出土遺物の中には鳥帽子があり、

縁は2枚の繊維を重ねて漆塗りされた上質品であるという。

鳥帽子の形態には立鳥帽子、折鳥帽子、細鳥帽子、引立鳥帽子、風折鳥帽子があり

、階級により作りや着用が異なるという。

年齢によっても使い分けされていた。鎌倉時代までは庶民も露頂を忌み嫌い

鳥帽子を着用したが室町時代には露頂が普及した。

近世に冠屋ができるまでは、おもに漆塗り師の職域であったという。

本遺跡は、内御堂遺跡同様、寺院や館に関係する遺跡の可能性があるという。


引用参考文献
2001「里本庄遺跡群 内御堂遺跡 大木戸遺跡 里本庄B遺跡 光明寺遺跡」新潟県神林村教

育委員会 山武考古学研究所

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本遺跡は、過日紹介した

内御堂C遺跡(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/48464663.html

の「コ」の字状の空堀がある丘陵の山すそに位置し、

C遺跡の空堀と、その延長上の本遺跡

の溝との関係が今後注目されるところだが、明らかにはなっていない。

ほ場整備事業により、事前に調査が行われ井戸1基、土抗3基、溝7条、ピット9基が検出された。

山添いの調査であった為、集落の全容を明らかするまでには至らなかったが、

礎板の出土によって掘立柱建物の存在が明らかになった。

遺跡からは、奈良平安時代~江戸時代の遺物が出土した。

遺構

2つの溝が重複してみつかった。溝とそのテラスの上端に杭列が検出され、

矢板状のものも水平に打ち込まれている場所があり、

護岸補強用のもので旧里本庄川の川岸と考えられている。

他に南北方向に延び、西側が一段深くなり底部が逆台形を呈するもの、

同様の形態を有する特徴の溝でやや浅いものがある。

後者2例の溝内からかわらけが出土した。


掘立柱建物
調査区全体にピットが8基検出され、平面形態は隅丸方形を呈する。

壁面は垂直で底部に礎板が存在した。


井戸2地区で縦板組隅柱横桟どめ構造の井戸が検出され、

精巧な構造である事から階級差が見受けられるという。

時期は糸切りの中世土師器から遡っても15世紀代と考えられるという。


遺物
もっとも古い遺物は、遺構に伴わない須恵器杯、甕で9~10世紀代である。

その後は13世紀~14世紀代の青磁・白磁、手づくね成形の中世土師器、

15世紀代のロクロ成形の中世土師器である。

溝(報告書のSD2下層)から出土した、

漆椀、箸は流れ込みによるものと考えられ、大木戸遺跡に共通するもので

15世紀代の所産と考えられている。

隣接して、内御堂C遺跡(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/48464663.html)、

里本庄経塚(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/38212025.html)があり、

中世石仏(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/44040027.html)、

http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/45665005.html)も近くの墓地に散見される。

本遺跡は13~15世紀代に存続した館、あるいは寺院の可能性が考えられている。


引用参考文献
2001「里本庄遺跡群 内御堂遺跡・大木戸遺跡・里本庄遺跡・光明寺遺跡」新潟県神林村教育

委員会 山武考古学研究所

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里本庄集落を西流する里本庄川により開析された小谷の河岸段丘上に立地する。

本遺跡は里本庄川が大きく集落付近で迂回する北側河岸段丘上が遺跡範囲である。

ほ場整備事業に先立ち調査が実施された。

検出遺構は土抗5基、溝2条、ピット7基で遺跡の性格を明らかにするに至っていない。

遺物は肥前系広東碗、仏飯器、瀬戸美濃系碗でいずれも江戸後期(18世紀~幕末)の製品である。

調査区は丘陵の裾部にあたり、現況は水田である。

引用参考文献
2001「里本庄遺跡群」「内御堂遺跡 大木戸遺跡 里本庄B遺跡  光明寺遺跡」新潟県岩船

郡神林村教育委員会 山武考古学研究所

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平安時代後半の11世紀末~12世紀中頃、現岩船郡を網羅する小泉庄が立荘し、

荘園領主は藤原家の傍流の中御門家である。

立荘以前から荘園領主直属の「本庄」と荘園領主と国衙に属する「加納」に分かれていた。

里本庄の開発領主は不明だが、平氏滅亡後の文治元年(1188)には、

小泉庄の地頭に秩父季長がなったものと思われている。

里本庄遺跡群のある里本庄には、

経塚(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/38212025.html)が発見され、

藤原清光、宗清の刻銘のある青銅製経筒が発見された。

この二人は鎌倉時代末~南北朝時代の人物とみられ、

里本庄周辺には中御門家の居館が存在した可能性が指摘されている。

本遺跡は、里本庄集落の北側背後の標高約30m前後の低丘陵地にあり「コ」の字状に空堀が

巡る場所があり一部延長線上の水田面に

後日紹介予定の内御堂遺跡で調査の際検出された溝状の遺構と方向性が一致するという。

隣接して東側の丘陵尾根上に先ほどの経塚がある。

現況は、山林、荒地で「コ」の字状に空堀と土塁で囲まれた場所は自然地形で、

空堀の内側の山中に伝・姫御前の墓という場所があるという(未確認)。

一説では「姫御前の墓」を守護する為とか、本庄氏に関係する居館跡など多説多様で定まって

いないのが現状である。この山前面にも大木戸と称する場所がありこの場所も後日紹介予定で

あるが中世の遺跡である。

2枚続きの写真は報告書(2001)より引用させていただいたもので、

昭和62年の新潟県遺跡分布調査の際、発見されたもので

調査カ-ド(高橋、磯部氏1990)によるものである。

引用参考文献
2001「里本庄遺跡群 内御堂遺跡 大木戸遺跡 里本庄B遺跡 光明寺遺跡」新潟県岩船郡神

林村教育委員会 山武考古学研究所
大家健「図説 中世の越後」野島出版

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