カテゴリ: 弥生時代


環濠集落の八幡山遺跡については過日紹介しました(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/54202751.html)。
 
調査結果から、出土土器群はA群・北陸系、B群・東北系、C群・折衷在地系の土器が出土し
 
八幡山遺跡でまとまってC群が出土し調査者は「八幡山式」と設定している。
 
土器群はC群の外来系の東北南部の土器の影響を受けた土器に縄文を施さずハケ目調整されたもので、
 
本遺跡で定量出土した。八幡山1期新段階から4期にかけてみられる「ハケ目地文」の2期~広口長胴壺は
 
この遺跡で特徴的で類例として福島県会津の屋敷遺跡・桜町遺跡、稲荷塚遺跡などでみられるという。

引用参考文献
2001「八幡山遺跡発掘調査」新津市教育委員会
2005(渡邊)「新潟県における高地性集落の解体と古墳の出現」新潟県考古学会
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C類・・八幡山式土器

古津八幡山古墳は、新潟市大字古津字八幡腰に所在する。

関東甲武信ケ岳を水源とする信濃川と猪苗代湖を水源とする阿賀野川に挟まれた低丘陵地の新津丘陵上に立地する。
 
本古墳の他に古津舟戸遺跡、古津諏訪社遺跡があり、距離的に近く概ね5世紀代の遺物が出土している。
 
舟戸遺跡では大型竪穴住居や柵列が見つかっている。
 
以前、本古墳は中世の山城として認識されていて「八幡山城跡」と呼ばれていた。
 
大正時代まで古墳の頂部に八幡神社が建立されていていた。
 
この地を郷土史家・加藤辰蔵氏は「字八幡山」に古城跡あり、53m余りの小丘である」と紹介し、
 
氏は護摩堂山城が落城後、その子孫が最初に拠点を構えた場所で、その後金津城に移転したと推測し、
 
平賀氏2代義信の頃という仮設を提唱した。その後、1987年から断続的に調査が行われ、
 
総合運動公園造成工事に伴い確認調査が行われた際に古墳として認識されるに至った。
 
その後も、郭、堀が残る山城として認識されていたが堀以外に中世の山城としての確証は得られていない。
 
古墳は県内最大級の直径60mの造出し付き円墳とされていたが
 
その後の確認調査で造出し部分は存在しない可能性が出てきた。
 
墳頂部は、方約10前後の平安時代の9世紀後半の土器と溝が確認され
 
1890年まで八幡神社境内として利用されて、攪乱された可能性が高く埋葬された主体部は確認されていない。
 
南西部には最大8m、深さ4m位の幅の溝があり排土を盛土にも利用したようである。
 
小丘盛土、作業用水平面が認められ千葉県大厩浅間様古墳(古墳前期末~中期前葉)の構造と似ていて、
 
古津八幡山古墳も同じ位の時期の4世紀末~5世紀前葉ものと考えられるという。

そして戦後畑地として利用されてさらに攪乱が進んだ。築造当時は現在より約1m位は高かったようである。
 
被葬者は蒲原平野一帯を治める有力者で他に前方後方墳が確認されている。
 
隣接する丘陵上には八幡山遺跡があり、後期旧石器時代、縄文後期、弥生時代の遺物が出土し旧石器時代、
 
縄文時代の遺物は散発的で主体は、弥生時代である。
 
これまでに弥生時代の内環濠と古津八幡山古墳をも取り込むように「V」字形の外環濠が設けられ、
 
環濠内に竪穴住居、前方後方形周溝墓が検出された。内環濠の内側は遺構や遺物の出土量が多く
 
外側は希薄である。弥生時代の出土遺物は、弥生土器、
 
石器類(アメリカ式石鏃、有茎鏃、凹石、礫器、石錘、石包丁様石器、石錐、大型蛤刃石斧、管玉、
 
ガラス玉、勾玉、軽石製品、砥石、擦石、有孔土製円盤など)、鉄剣、土器棺墓が出土した。
 
弥生時代の集落の終末期に前方後方形周溝墓に恐らく村の統括する人物の墓が築かれ環濠集落廃絶後、
 
年代を特定できるものはないが、恐らく100年の空白期間後に古津八幡山古墳が作られたのだろうと
 
考えられている。弥生時代の集落を構成していた人はどこへ去ってしまったのか。
 
新潟県内に分布する北方系の続縄文文化を持つ人々や東北方面、北陸方面との各方面の人々との関係など興味深いものがある。
 
八幡山遺跡八幡山遺跡の出土品は弥生の丘展示館で見ることができる。
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史跡公園として整備された八幡山遺跡(復元土塁と住居跡)
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前方後方周溝墓
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環濠集落からみた蒲原平野の眺望
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八幡山遺跡への入口付近にある「弥生の丘展示館」
展示品はとても充実していて、しかも入場料無料だそうです
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八幡山遺跡出土の土器群・・弥生の丘常設展示品
 
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常浪川上流域の大鱒谷山、二倉山、小瀬が沢山に囲まれた標高450m前後の山間地、御番沢川左

岸の丘陵斜面にある。

岩脈がオ-バ-ハングし、雨水が直接当たらないような岩陰にある遺跡で、

昭和59年(1984)に、当時の上川村教育委員会、新潟大学による調査で発見された。

その後、昭和60年、61年の2次にわたる新潟大学の学術調査で、

土器片、獣骨片が出土し遺跡の可能性が高まった。

岩陰は、開口部は南北方向に約40m、立断面はほぼ扇形で、

ひさし部分の崩落堆積物のテラスの奥行きは7.5mである。

地表面から約1.5mの深さで崩落岩の隙間に黒土があり、土壌を水洗

すると炭化物であった。

調査の結果、生活痕である灰層が3か所で確認され、

岩陰での火の使用を示す証拠となった。

遺物は、ほぼ弥生前期に該当する土器片、石器、剥片などが出土し、

土器は弥生時代の初期である新潟の緒立式に限定できるもので、

変形工字文、工字文、匹字文など東北地方中・北部に分布する大洞A´式・砂沢式の系譜をひく

土器群が主体とされる。

石器類は石鏃が大部分を占め、ツキノワグマ、ニホンカモシカを主体とする獣骨が

多量に出土し、獣骨の破損状況から骨髄食の可能性も考えられるという。

本岩陰周辺で、拠点集落を構えるだけの地形が皆無であることから、

狩猟で得た獲物をその地で解体する為の場所の可能性が高いという。

引用参考文献
平成18年「東蒲原郡史」資料編1 原始 東蒲原郡史編纂委員会   

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昭和50年頃、遺跡周辺の踏査をしていた村上市在住のSさんにより、

本遺跡のある丘陵上の畑から石器が採集され、遺跡として認識されるようになった。

その後、幾度となく踏査が行われ弥生土器、アメリカ式石鏃、管玉未製品、石核などが確認され、

管見に紹介されている。

遺跡のある場所は、村上市助淵の八幡山にあり、

旧岩船潟を中心とする低地に向かって派生する標高約25m前後の尾根末端付近に立地する。

遺跡の北東側は浅い谷があり遺跡を画すようになっている。南東側の土砂採掘の為の崖錘面か

らは縄文時代前期末葉から中期前葉の土器・石器が出土した。

丘陵北西端で、平成5年には神林村教育委員会により送電線鉄塔建設の事前調査が行われ

フラスコ状土抗が検出され縄文時代前期末葉から中期前葉の遺物が出土した。

遺跡の立地から弥生時代の高地性集落の可能性も考えられた事もある。


管玉は全て緑色凝灰岩で、アメリカ式石鏃は9が玉髄、他は頁岩ということである。



アメリカ式石鏃(あめりかしきせきぞく)
有柄式石鏃で柄の部分がT字形に突き出したもので、

アメリカインデアンが使用したものに良く似ているという。

分布は関東、東北地方に多い。

弥生時代後期の天王山式土器に伴う場合が多く、一度体内に突きささると、

T字形をしている為抜けにくく、折れやすいので殺傷力が極めて高い。


引用参考文献
1996磯部保衛「北越考古学」第7号 北越考古学研究会

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本遺跡は、阿賀野市大字熊居新田に所在する。阿賀野川右岸の沖積地に立地し

標高約12mである。国道49号線阿賀野バイパス建設に伴い、

新潟県教育委員会、新潟県埋蔵文化財調査事業団によろ調査が行われた。

調査結果から上層、下層の2面で遺物の包含層が検出された。

上層は中世の12世紀~14世紀代の遺構、遺物。下層は弥生時代中期後半の遺構、遺物が出土した。

上層では掘立柱建物7棟、井戸6基、土抗17基、溝状遺構14条、土器集中区3か所を検出した。


土抗の土器出土状況から土抗墓の可能性が高い。

土器は小型の壺、甕、鉢、蓋で器形や文様から

東北北部の宇津ノ台式(沈線文系)、東北南部系(沈線文系)(川原町口式)、北陸系(櫛描文系)(小松式)がある。

一地方のみの影響を受けた土器はなく一つの土器に複数の土地の影響がみてとれるという。

土器は完形率は高く、底部が打ち欠かれた土器も存在した。石器の出土はない。

引用参考文献
2009「庚塚遺跡 狐塚遺跡」新潟県教育委員会 財団法人 新潟県埋蔵文化財調査事業団

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