2014年01月


環濠集落の八幡山遺跡については過日紹介しました(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/54202751.html)。
 
調査結果から、出土土器群はA群・北陸系、B群・東北系、C群・折衷在地系の土器が出土し
 
八幡山遺跡でまとまってC群が出土し調査者は「八幡山式」と設定している。
 
土器群はC群の外来系の東北南部の土器の影響を受けた土器に縄文を施さずハケ目調整されたもので、
 
本遺跡で定量出土した。八幡山1期新段階から4期にかけてみられる「ハケ目地文」の2期~広口長胴壺は
 
この遺跡で特徴的で類例として福島県会津の屋敷遺跡・桜町遺跡、稲荷塚遺跡などでみられるという。

引用参考文献
2001「八幡山遺跡発掘調査」新津市教育委員会
2005(渡邊)「新潟県における高地性集落の解体と古墳の出現」新潟県考古学会
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C類・・八幡山式土器

戦国時代の越後国大乱のひとつに1578年に死去した国主・上杉謙信の跡目争いの「御館の乱」
があった。
 
越後は景勝方と景虎方に別れ争乱になった。
 
新発田重家は景勝方に組して川中島の戦いで戦果をあげ、最終的には景勝が勝利。
 
戦乱で景虎方についた新発田氏と関係の深い加地秀綱、三条城の神余親綱を討つなど功績をあげたものの、
 
戦後処理での論功行賞は軽んじられ不満を持った。その状況を知った蘆名氏、伊達氏は上杉景勝への
 
新発田氏の反乱工作を企て、旧景虎方の武将らにも声をかけ新発田の乱が勃発した。
 
新発田軍は新潟津を奪い急遽砂州に新潟城を築城した。
 
景勝方は木場城を築いて番城としたが天正11年2月8日、新潟城主新発田綱朝・綱之父子が木場城を攻撃。
 
4月19日には岩室城主小国氏、木場城主蓼沼氏が新潟城を攻撃した。
 
景勝は小田切弾正忠にも新発田攻撃に参陣するよう要請した。
 
5月1日春日山城から出陣した景勝軍は信濃川河口の中島の城に新発田綱之を攻撃。
 
船5艘を並べ結合させて、櫓を組み、櫓に100丁程の狙撃手を並べたものを5個作り、
 
川上から大縄で繋いで上流から流しながら鉄砲で撃ち、再度上流に引いては下流に流して
 
鉄砲を城内に向け昼夜激しく射撃した。しかし、これと言った成果も無く新潟城は落城しないので
 
城下に火を放ち軍勢を引き上げた。しかし、再度天正14年景勝は再攻撃でついに新潟・沼垂を攻略した。
 
新潟城の位置は寄居付近や白山神社付近にあったというが遺構も見つかっていないので、
 
詳細な位置は不明である
 
白山神社
旧新潟町の総鎮守。祭神は、菊理媛命、伊弉諾尊、伊弉冊尊。加賀の白山権現を勧請したと伝える。
 
草創年不詳。元亀年中(1570~73)に宝亀院住僧憲海が十一面観音と宝鏡を安置したと伝える。
 
引用参考文献
飯田素州(2005)「越後加地氏新発田氏の系譜」新潟日報社
1986「新潟県の地名」新潟県歴史地名大系15 平凡社
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現在の白山神社
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白山j神社境内の白山公園
 

 
1月13日の夕方、薄暗くなりかけた頃、偶然車で下綱木集落の国道を通過した際、
 
綱木川の対岸に大きな火が燃え上がるのと老若男女の人だかりが見えたので、
 
何だろうと思い車を寄せて、見にいってみた。
 
聞くと毎年小正月になると「ドンド焼き」をやり、あらかじめ枝を組んだ「ドンド」に藁を積んで
 
夕方16時頃から火を付け正月の注連飾り、注連縄など家から持ち寄り積み上げて燃やすという。
 
餅やスルメを青竹につけて焼いて食べると1年間無病息災でいられるという。
 
旧暦では1月15日が小正月であるが、休日で15日に近い、人が集まりやすい日に実施しているようである。
 
取材中、初対面にも関わらず笑顔で「餅でも焼いて食べて行きなさいよ」と親切に声をかけられて、
 
親近感が湧いてつい打ち解けてしまい焼いてくれた餅をいただきました。ごちそうさまでした。
 
 
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外の広場でどんど焼で集まる集落の人たち
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赤々と燃える火を囲んでみんなで楽しそうに餅やスルメを焼いていました
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青竹に挟んで餅を焼くと香ばしくて美味しいやきもちができました
 

古津八幡山古墳は、新潟市大字古津字八幡腰に所在する。

関東甲武信ケ岳を水源とする信濃川と猪苗代湖を水源とする阿賀野川に挟まれた低丘陵地の新津丘陵上に立地する。
 
本古墳の他に古津舟戸遺跡、古津諏訪社遺跡があり、距離的に近く概ね5世紀代の遺物が出土している。
 
舟戸遺跡では大型竪穴住居や柵列が見つかっている。
 
以前、本古墳は中世の山城として認識されていて「八幡山城跡」と呼ばれていた。
 
大正時代まで古墳の頂部に八幡神社が建立されていていた。
 
この地を郷土史家・加藤辰蔵氏は「字八幡山」に古城跡あり、53m余りの小丘である」と紹介し、
 
氏は護摩堂山城が落城後、その子孫が最初に拠点を構えた場所で、その後金津城に移転したと推測し、
 
平賀氏2代義信の頃という仮設を提唱した。その後、1987年から断続的に調査が行われ、
 
総合運動公園造成工事に伴い確認調査が行われた際に古墳として認識されるに至った。
 
その後も、郭、堀が残る山城として認識されていたが堀以外に中世の山城としての確証は得られていない。
 
古墳は県内最大級の直径60mの造出し付き円墳とされていたが
 
その後の確認調査で造出し部分は存在しない可能性が出てきた。
 
墳頂部は、方約10前後の平安時代の9世紀後半の土器と溝が確認され
 
1890年まで八幡神社境内として利用されて、攪乱された可能性が高く埋葬された主体部は確認されていない。
 
南西部には最大8m、深さ4m位の幅の溝があり排土を盛土にも利用したようである。
 
小丘盛土、作業用水平面が認められ千葉県大厩浅間様古墳(古墳前期末~中期前葉)の構造と似ていて、
 
古津八幡山古墳も同じ位の時期の4世紀末~5世紀前葉ものと考えられるという。

そして戦後畑地として利用されてさらに攪乱が進んだ。築造当時は現在より約1m位は高かったようである。
 
被葬者は蒲原平野一帯を治める有力者で他に前方後方墳が確認されている。
 
隣接する丘陵上には八幡山遺跡があり、後期旧石器時代、縄文後期、弥生時代の遺物が出土し旧石器時代、
 
縄文時代の遺物は散発的で主体は、弥生時代である。
 
これまでに弥生時代の内環濠と古津八幡山古墳をも取り込むように「V」字形の外環濠が設けられ、
 
環濠内に竪穴住居、前方後方形周溝墓が検出された。内環濠の内側は遺構や遺物の出土量が多く
 
外側は希薄である。弥生時代の出土遺物は、弥生土器、
 
石器類(アメリカ式石鏃、有茎鏃、凹石、礫器、石錘、石包丁様石器、石錐、大型蛤刃石斧、管玉、
 
ガラス玉、勾玉、軽石製品、砥石、擦石、有孔土製円盤など)、鉄剣、土器棺墓が出土した。
 
弥生時代の集落の終末期に前方後方形周溝墓に恐らく村の統括する人物の墓が築かれ環濠集落廃絶後、
 
年代を特定できるものはないが、恐らく100年の空白期間後に古津八幡山古墳が作られたのだろうと
 
考えられている。弥生時代の集落を構成していた人はどこへ去ってしまったのか。
 
新潟県内に分布する北方系の続縄文文化を持つ人々や東北方面、北陸方面との各方面の人々との関係など興味深いものがある。
 
八幡山遺跡八幡山遺跡の出土品は弥生の丘展示館で見ることができる。
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史跡公園として整備された八幡山遺跡(復元土塁と住居跡)
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前方後方周溝墓
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環濠集落からみた蒲原平野の眺望
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八幡山遺跡への入口付近にある「弥生の丘展示館」
展示品はとても充実していて、しかも入場料無料だそうです
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八幡山遺跡出土の土器群・・弥生の丘常設展示品
 
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