本遺跡は、大淵字天神裏に所在している。阿賀野川下流域の左岸にある自然堤防上に立地する。
 
本遺跡が立地する自然堤防上には遺跡数は稀で、大半が亀田砂丘(新砂丘列Ⅰ)に立地している。
 
現況は宅地、畑地、水田で現地踏査の折には幾つか須恵器片が確認できた。
 
1997年、1998年と宅地開発に伴い発掘調査が行われている。

遺構は、溝、土坑、性格不明遺構が検出され、上層は10世紀半ばから後半。
 
下層は9世紀後半から10世紀初頭前後までの遺物が出土し平安時代、中世、近世の遺物が出土している。
 
平安時代の遺物は、須恵器、土師器(墨書土器)、緑釉陶器、風字硯、漆紙、土製品、木製品がある。
 
注目される遺物として「□隆寺」記載の墨書土器、緑釉陶器、風字硯、漆紙文書がある。
 
陶硯である風字硯は風の字に似ている事から「風字硯」とされ、他に円面硯などがある。
 
現在、石硯が主流だが古い時代は陶硯が主流で、陶硯の最古のものは
 
7世紀前半の京都市宇治市隼上り瓦窯跡で焼かれたものが知られている。
 
当時陶硯の形は多様であったが、奈良時代には圏脚円面硯が一般的になった。
 
須恵器杯や蓋などを転用した転用硯も陶硯が主流だったころは多数を占め平安時代にかけ良く散見できる。
 
風字硯の県内の出土例として大淵遺跡の他に上越市柿崎区の新保遺跡があり
 
大型の建物が検出され畿内と関連ある人物とみられる有力者の木炭槨木棺墓が検出された遺跡で
 
大淵遺跡同様有力者の存在が想定できる遺跡かもしれない。
 
漆紙文書は、漆容器に漆を満たしてある場合に、ごみや塵が漆の表面に落下し混入を防いだり
 
乾燥を防止する為に、蓋の代わりに紙を覆う場合がありその紙が公文書である場合も多い。
 
漆が付着していた紙があると地下深くに眠っていたものでも漆が保護して、
 
当時の様子を記した文献が残る場合がある。
 
大淵遺跡の漆紙は須恵器無台杯底部内面に付着してみつかっている。
 
赤外線写真で漆紙を調べたところ「解」または「廨」の文字が記載されているのが発見できたという。
 
「解」は律令制で下級役所から上級役所に提出する文書に使用される文字だという。
 
「廨」は、公廨・公廨田・公廨稲の用語に見られ、元々官庁の建物、収穫物を指していたが、
 
後に官庁職員の俸給的得分を意味する用語になったという。
 
次に漆は延喜式交易雑物条には越後国が漆五斗を納めるように規定されていた。
 
漆が出土した事から漆工房の存在や漆紙の出土から官衙的遺跡の可能性が指摘されている。
 
また「寺」記載のある墨書は官衙と強い寺院の存在も想定できそうである。
 
引用参考文献2001「国営ほ場整備事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書 新保遺跡」新潟県埋蔵文化財調査報告書第103集
1999「大淵遺跡 宅地開発事業に伴う発掘調査報告書」新潟市教育委員会
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遺跡近景
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須恵器
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