2013年10月


旧黒崎町(現・新潟市西区)に弧状を呈する自然堤防上に木場集落がある。
 
集落には木場八幡神社がある。
 
周囲を公園として整備し『宮の森・木場城公園』として整備されている。
 
城をイメージした遊具やせせらぎもあり子ども達に人気がある。
 
当時の城の想像図も現地説明板にあるが遺構は失われていて、その規模や縄張りなど詳細は不明である。
 
三条城は代々守護代長尾氏の蒲原郡代として活躍した山吉氏が城主であったが、
 
天正5年城主山吉豊守が没すると、三条城は召し上げられ、弟の山吉景長が天正8年(1580年)に
 
「木場」の地が宛がわれた。
 
上杉謙信死去後の世継問題が起き、その御館の乱後の戦後処理の論功行賞に不満のある新発田因幡守重家は、
 
新潟津の沖の口運上を越中に出陣中の竹俣慶綱が留守中に、横領した。
 
これに対し上杉景勝は木場城を新潟津の番城として菱沼友重に木場城主を命じ、
 
山吉景長には二の丸の守備を命じた。やがて、新発田重家と上杉景勝の争いは、織田信長が本能寺の変で
 
他界すると、新発田勢不利になり新発田氏は滅亡する。
 
その後も木場城は、新潟津の番城として存続するが慶長3年上杉景勝が会津移封になると廃城になった。
 
木場城の比定地は諸説あり、斉藤秀平氏は新潟市黒鳥説。
 
金塚友之丞氏は木場に木場城があったと推定し、その根拠として・・・木場集落東端の山際宅を地元で本丸と呼んでいる。
 
木場八幡神社との間に上屋敷、黒鳥間に下屋敷という地名があるという。
 
木場八幡神社近くに御墓と呼ばれる場所がある点、山際宅は集落でも高所にあり、土塁、堀の推定は可能という。(昭和10年9月4日朝日新聞)。
 
木場出土の雁股の鉄鏃が(緒館参考館蔵)文献で紹介されている。
 
木場城の比定地は青木宏氏によって精力的に探求され、木場村地割絵図、古老の証言、
 
遺物の表面採集等を行い木場城の復元図を示した。
 
採集遺物は、須惠質土器、青磁、天目茶碗などの陶磁器片、羽口があり写真で紹介されている。
引用参考文献
青木宏1964「越後木場城」黒崎村教育委員会
 
イメージ 1
木場城推定地・・・木場八幡宮
イメージ 2
八幡宮本殿
イメージ 3
城館をイメージした遊具(宮の森公園)
イメージ 4
木場八幡宮脇の池・・・水堀の名残りのようにも見えます
イメージ 5
木場集落地割図
イメージ 6
 
イメージ 7
木場城復元図
イメージ 9
木場出土雁股鉄鏃(緒立参考館蔵)
イメージ 8

田上町の北東部。新津丘陵の護摩堂山(268.3m)の山頂一帯にある山城である。
 
元禄3年(1690年)の護摩堂山由緒によれば、東龍寺を奥ノ院とする72坊があり一帯は三井山と呼ばれていて、
 
72坊の各寺が山頂に護摩壇を作り真言密教をした事から「護摩堂山」と呼ばれるようになったという。
 
「越後名寄」には、「狐峰削レルガ如、頂ニ井水有、要害堅固也(中略)往昔、
 
前ノ予州源義卿ノ後胤平賀盛義居城ス、後世、坂戸ノ領主長尾政景ノ長臣宮島三河守居レルカ」とある。

文献上の初見は、応永の大乱の時、守護方の中条房資の軍勢が大面(おおも)(現・栄町)や
 
護摩堂城に立て籠もっている。永正の乱では、守護代長尾為景の重要拠点としていた。
 
次いで御館の乱後の天正9年(1581年)には、上杉景勝が甘粕景継にこの城を、守備させていた。
 
慶長5年(1600年)の越後一揆には、この城や加茂城に一揆勢力側が立て籠もっていたが、
 
以後廃城になった。近世になり、講談物の黒鳥伝説でも親しまれるようになった。
 
山城は、頂上の平坦地が本丸。南の尾根に出丸があり、遊歩道も完備され、随所に説明板が設置されている。
 
 
引用参考文献
「新潟県の地名」日本歴史地名大系15 平凡社
イメージ 1
護摩堂城の説明板
イメージ 2
山頂本丸
イメージ 3
現地説明板にみる縄張り図
イメージ 4
登山道に珠洲焼が落ちていました
イメージ 5

↑このページのトップヘ