2013年05月

越後平野の西方。日本海沿いには海岸砂丘があり、
 
その背後には山岳地から流れ出た河川の水が砂丘地で日本海に注ぐのを阻み
 
排水不良で後背湿地が広がっていたが、近世以降の治水事業によって見事な水田地帯に生まれかわった。
 
本遺跡群は江戸時代の新発田藩主第6代溝口直治公の享保11年(1726年)に
 
加治川の瀬替え事業によりできたとされ、弁天潟の西方に隣接する位置にある。
 
現在は「風致公園」に造成されている。以前から周知されていたが「風致公園」整備事業に伴い調査された。
 
遺跡の標高は2.5m~3.5m程で新砂丘Ⅰ-3が入江状になった縁辺に立地している。
 
蓮野Ⅰ遺跡は縄文後期中葉を主体とする。調査区よりも遺跡が広がる可能性もある。
 
蓮野Ⅰ遺跡の出土遺物は縄文時代後期中葉及び晩期深鉢と土製品の三角形板状土製品、
 
石器の石鏃・石皿、古墳時代の土師器壺、古代の土錘などが出土している。
 
県内で古墳時代中期の遺跡は極限られていて、六日町の余川中道遺跡、六日町の金屋遺跡、
 
上越市一之口遺跡、同市二反割遺跡、同市狐宮遺跡、同市大塚遺跡、胎内市六斗薪遺跡などがあり
 
古墳時代中期の遺跡数は少ない。
 
その中でも本遺跡は希少な遺跡でもあろうか。
 
引用参考文献
2013「弁天潟風致公園周辺整備事業に伴う発掘調査報告書」『蓮野遺跡 潟尻遺跡』 新潟県
聖篭町教育委員会
 
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弁天潟
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政所条遺跡群新潟県北部の胎内川が形成した扇状地の、
 
標高20m前後に展開した江上館( http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/31025603.html)と
 
その周辺の下町・坊城遺跡の総称である。
 
11世紀~16世紀まで連綿と続いた奥山庄の中心遺跡である。
 
下町・坊城遺跡は調査は、数次に渡り実施された。江上館の東側に隣接するA地点から、
 
南下してB地点、C地点となり、C地点の東側にD地点がある。
 
現在、住宅地となっているが、遺跡の一部が史跡公園として整備中(2013年5月現在)である。

参考・・水澤孝一(2003)「中世城館から城下町へ」北陸中世考古学研究会を参考に一部修正報告する。
A地点
江上館の西方に隣接する場所で、石組井戸を伴う屋敷地2区画が検出された。
 
時期的には13世紀~15世紀を中心とする。掘立柱建物84、井戸17が検出され、
 
両屋敷地の間及び南屋敷の東方には、道路跡が確認されている。
 
館との位置関係から、調査者は15世紀代には家臣団の屋敷地ではないかという。
 
館が廃絶後の16世紀~17世紀代にも利用された事が確認され越中瀬戸、肥前系陶器の
 
良好な資料がみつかっている。
 
屋敷地の西方には12世紀~13世紀代を中心とした遺構や遺物が検出され、
 
多量の遺物が川跡からみつかっている。
 
出土遺物は、白磁水注・椀皿、青磁椀、青白磁椀皿、青白磁合子、珠洲、
 
木製品に漆器椀皿、鍬、下駄、槽、札、櫛、火鑽臼、付木の生活用具の他に、
 
鏑(かぶら・・弓矢に取り付けて射た時に音響が出るもの)、陽物、刀形、鳥形等の形代もある。
 
他に漆器皿の荒型や糸巻がある。

B地点
50m四方の溝の区画が南北に2区画ある。掘立柱建物58棟、井戸1基が検出された。
 
不整形のの土坑から8点の墨書板碑が出土している。
 
そのうち、2点に天文18年(1549年)・元亀3年(1572年)の紀年銘が確認されている。
 
前者に「光明真言」「七廻忌」が、後者に「金剛名号」が墨書された。
 
南方は15世紀代が中心で四面廂を持つ建物が検出され、
 
建物の周囲から護摩杓(大杓)・護摩炉・金剛鈴・荘厳具の一部。
 
五輪塔火輪が出土し密教寺院の御堂と考えられるという。
 
そして石組の水溜り遺構や大型建物などが周辺でみつかっていて、
 
仏具以外に居館にも劣らない高級陶磁器、茶臼、皆朱漆器などの領主階級の遺物も多数認められ、
 
少なくとも館の存続期間には宗教空間として機能していたと考えられている。
C地点
江上館の南西約400mの地点。L字形に流れる河川の両岸と南方を区切る河川の北方に立地する居住区。
 
12世紀後半~14世紀代主体。
 
遺構は掘立柱建物107棟、井戸22基等で南西隅で15世紀代に礫や枝で埋めたてて作った道路跡も検出した。
 
本地点からは大量の土器皿と漆器が多量に出土している。
 
出土品の陶磁器の中には瀬戸巴文瓶子・水注・青磁大型香炉・双魚文皿・青白磁・緑釉盤などの
 
高級品も含まれる。北隅では小鍛冶の炉跡も検出されていて工房があったようである。
 
2条の河川跡から大量の焼き物の他に呪符・下駄等がみつかっていて
 
中でも150個体以上の漆器椀・皿・盆が出土した。
 
白木の椀・皿もある。総黒色系の製品で2割位が漆絵を施す。

D地点
調査区南半分から江上館と同時期の室町時代15世紀の遺構群がみつかっている。
 
北半分からは鎌倉時代の13世紀後半~14世紀前半の遺構群が検出された。

鎌倉時代の遺跡は、屋敷地を区画する溝・大型掘建柱建物、8基以上の井戸が検出された。
 
屋敷地の規模は約60m四方で北方の室町時代の江上館と同規模である。
 
出入口は裏口と思われる場所に土橋状の掘り残しが見られた。
 
建物群は、ほぼ同じ位置で何回か建て替えが行われている。
 
これら建物群は「奥山庄波月条近傍絵図」の地頭屋敷を髣髴とするもので注目される。
 
この鎌倉時代の屋敷跡は建物群の規模や出土遺物から下町・坊城遺跡の中でも
 
最も格式の高い人物が居住していた可能性があり、当時の奥山庄の歴史と照らし合わせると
 
地頭の三浦和田氏一族の可能性が高いという。
 
引用参考文献
水澤孝一(2003)「中世城館から城下町へ」北陸中世考古学研究会
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史跡公園として整備中の下町・坊城遺跡
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坊城遺跡の完成予想図
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奥山荘歴史館に展示してある坊城館跡の復元図
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下町・坊城遺跡出土の越前擂鉢(左)と瓦質土器擂鉢(右)
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(水沢2003)「中世城館から城下町へ」北陸中世考古学研究会より引用
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