2013年04月

本遺跡は、山形県の朝日連峰を水源とする荒川流域左岸の高位河岸段丘面に立地している。
 
標高は88~100mで遺跡のすぐ北側で荒川が蛇行し、荒川支流の沼川が合流する。
 
遺跡周辺は急峻な段丘崖が形成している。
 
将来日本海側と太平洋側の交通の円滑化と地域振興を目論んで鷹ノ巣道路の計画に伴い分布調査、
 
試掘調査が行われ新たに遺跡が発見され「カヤマチ遺跡」と命名された。
 
2012年に本調査が行われている。村内の本格的な調査は「荒川台遺跡」に次ぐもので、
 
村内の旧石器時代から縄文時代にかけていくつか周知化されているが、
 
その空白を埋めるものとして、また下越地方においても希少な早期後葉の土器群が確認された
 
貴重な存在である。土器群については、2次的な比熱や風化が著しく器面の状態は良好とは言い難いという。
 
土器の施文の特徴から縄文前期中葉の可能性もあるが、胎土の特徴や共伴する石器の組成から
 
縄文早期後葉に比定されるという。
 
出土遺物は、不定形石器と剥片類が殆どで、100点程の出土遺物に対し8点のヘラ状石器が
 
高い割合で出土した。出土石器類は、接合率の低さや礫面・転礫面・節理を持つものが少ないという
 
特徴があり、あらかじめ他の石材採集地で粗割りして得た縦長剥片の中で良品を抽出し
 
遺跡に持ちこんだ可能性、一時的な野営地としての遺跡の性格を調査者は指摘している。

引用参考文献
2013『カヤマチ遺跡』「一般国道113号 鷹ノ巣道路関係発掘調査報告書Ⅰ」新潟県教育委員会 財団法人 新潟県埋蔵文化財調査事業団
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調査中のカヤマチ遺跡
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出土ヘラ状石器
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飯豊連峰を水源とする加治川は、新発田周辺の水田地帯に良質な水を供給し良質な稲を育て、
 
生活する動植物を育んできた。
 
加治川は中世まで新発田の東部にある低丘陵地の五十公野丘陵の南部を流れていて
 
中世豊田荘と加治庄の庄域の堺ともなった。
 
江戸時代に入り溝口氏が加賀より入封し最初の治水工事を行ったのが仏島の開削工事で、
 
五十公野山の南部を流れていた加治川を五十公野山の北部を流れる坂井川に合流させ、
 
佐々木川の流域を干上がらせて広大な穀倉地に改変させたという。
 
最初の仏島開削工事を物語る古文書等確認できず、
 
もし本ブログを訪問された方でご存じの方がいらっしゃれば御教授頂ければありがたいです。
 
旧佐々木川の形跡は、五十公野南側で河岸段丘や荒町や池ノ端付近川原石の露頭があり
 
当時河川だった事がうかがわれる。越後野志に開削工事のことが記事になっているので参考にして頂きたい。
 
その後の水量を増した加治川は水量を増したのが原因で
 
五十公野山北部から新発田市北部域で洪水を引き起こしたという。
 

越後野志 上巻 
加地郷豊田庄ノ堺ヲ流ル、古ハ沼垂郷ト蒲原郡ノ堺タリシガ沼垂郡廃シテ後蒲原郡二属ス、此川古ハ大見村・山崎村・六日町村ノ間ヲ流レ、浦村放生橋村ヲ経テ佐々木村二至リ佐々木川ト名ヅケシガ慶長三年、溝口伯耆守新発田城主ト為玉ヒテ後、今ノ川筋二改瀬替ス、大田村長ノ家二城主ヨリ賜リ当時普請二用ヒシ海螺ヲ家蔵ス、水源飯豊山ノ西北谷中ヨリ出、諸山ノ渓水合流シ、瀧谷村・赤谷村駅ノ山間ヲ流レ赤谷川・中山川・小戸川合流シ加治二至テ姫田川流レ入、長柄村・真野村ノ諸村ヲ過浜山ノ南方ヲ流、松崎浦二至リ、阿賀水ト合同シ海二入(以下省略)
 
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仏島付近の現在の加治川
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五頭連峰北部、加治川の左岸の山間地に中々山集落がある。
 
明治元年の戊辰戦争では、新政府軍・新発田藩の連合軍と会津軍との間で激しい攻防戦があり
 
「角石原古戦場」としても著名な場所である。
 
この中々山集落周辺に「殿居」「要害」などの中世以来の城館跡と思われる地名が点在し、
 
以前から中世城館跡の存在が疑われていたが、最近までその所在は明らかになっていなかった。
 
しかし、最近新発田市在住の郷土史家によって、山城遺構が確認された。
 
集落内の「字殿居」にある中々山神社の背後の藪尾根を少し登ると、
 
間もなく3段位の小曲輪群と削平地、土塁、連続する尾根を区切る空堀が確認できる。
 
その奥の山中にもまだ山城遺構が今後の踏査で発見できるかもしれない。
 
中々山には文治の頃、源予州(義経)の残党数人がここに落ちのび中々山に居住したという伝承がある。
 
その跡は「元屋敷」という地名で残っているという。
 
又「三淵」という辺りは冨樫元屋敷と呼ぶいうところがありこれは父政親が長享2年(1488)、
 
加賀一向一揆に敗れて越中に来て自害した後、越後中々山に子の政長が来て村の為に尽くしたという
 
伝承がある。
 

引用参考文献
平成21年「富樫卿」第63号 富樫卿奉賛会(野々市町教育委員会内))
「越後国蒲原郡中山村村誌」冨樫卿 第63号所収によれば・・・

「本村古時不詳地名一二中山ト唱ヒ往古ヨリ樵夫入合洞居或ハ草?一時ノト居二シテ稍山村ノ形
アルノミ文治ノ末二至リ偶源予州ノ残徒落魄シテ本村処々二宅地ヲ占メ既二五十嵐、栗山、清
田、津田、猪股、景等各元屋敷トテ其宅地アリ又三淵ノ辺二冨樫元屋敷ト唱フル処アリ是レ昔
冨樫介政長ノ邸宅タリ父政親長亨二年(1488年)加州一揆ノ為落城二及ビ越中二走リ自害シ後
政長越後二走リココ二止リテ村功ヲ張リ門葉蕃殖シテ終二中山村ト称シ方今二至リテ村戸十ニ
七分皆冨樫姓ヲ呼ベリ故二冨樫政長ヲ以テ抑本村中興ノ基祖トセリ慶長度溝口氏ノ領地二属ス
ル二及ンテ始メテ村戸道傍ニ聚リ村勢全ク位置ヲ整ヒ貞享元甲子及ビ正徳延亨同氏ノ検地二依
リ租税屡改正シ従来同領東方ノ境域二アッテ本郡豊田荘タリ
神明社 元標ノ西宅地鎮座ス国常立尊相殿宮南方二対セリ幣殿東西九尺南北六尺長床上二同シ
拝殿東西三間南北弐間境内除地東西拾壱間南北九間弐合面積弐百六拾壱坪階前正面華表一基木
造高壱丈幅七尺本村ノ住冨樫政長延徳三年巳酉創立ス祭神国常立尊、天照皇大神祭日毎年九月
一日ヲ例トス
 但本堂安永七年戊戌十月十六日再建ス古来社格アル事ヲ聞ス一説ニ元慶二年頃ヨリ中山谷鎮
守トテ入会樵者鳥越ノ南麓二遷宮シ新二国常立尊ヲ始メ親祭ヲナセシト云徳川幕府明歴ノ度幣
村神職維新ノ際二当リ当社住冨樫丹波守吉長同四戊戌始テ神道管領兼連朝臣二謁シ神職二任シ
累代相継テ近来二至リテ都合弐反大百歩ノ地ヲシテ貢米諸役ヲ免シ社田二賜ル去ル明治二年己
巳庁令二依リ出石シテ税地トナル今猶伊勢田宮ノ腰寺字ヲ耕田二存ス」
 
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集落のはずれにある中々山神社遠望!
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中々山神社!!
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神社背後の山中で確認された空堀!!
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空堀
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