2013年03月


今回紹介するのは、せきかわ歴史と道の館に常設展示されているものに
 
「伝・須貝形部の轡(くつわ)」が展示されています。
 
轡(くつわ)は、馬の口にはませる金具で、手綱を付けて馬を制御するのに使用するものです。
 
丸に十文字の小鏡。立聞壺が喰で繋がっています。
 
残念ながら手綱を取りつける引手壺はや手綱は現存していません。
 
少し興味を持ったので参考書等で調べてみました。
 
轡については「せきかわ歴史散歩」にも紹介されていています。
 
それによれば、鎌倉時代の関川村が荒川保と呼ばれていたころ、
 
河村氏を名乗る人物が建長7年(1255年)、関東下知状に記載されているのが初見ですが、
 
それは「越後国小泉庄内牛屋条地頭色部右衛門尉公長予同国荒川保地頭河村小太郎景秀与相論之事」に
 
おいて確認できます。(新潟県史 資料編所収)
 
当時、荒川保地頭・河村小太郎景秀が地頭として当地を支配下においていた事がわかります。
 
当地に着任した年代や様子を記したものはありませんが、
 
伝承では、須貝形部が河村氏と共に当地にやって来た際中束に土着しました。
 
元来弓の名手であった形部は、日没の頃、弓矢で熊を射たが射止める事ができず取り逃がしてしまいました。
 
翌朝、熊の血痕を頼りに探していたら、山の中の湯壺で湯あみをしているのを発見。
 
熊は逃げてしまいましたが熊のおかげで温泉を発見したという事です。
 
須貝形部は地元の有力者の津野源太夫に協力してもらい湯沢の地に湯治場を開き
 
形部経営の宿は本鎌倉屋、源太夫経営の宿は田屋と称したという事です。
 
湯沢の須貝叉右衛門家は須貝形部の子孫で、轡は須貝形部使用の轡とされています。
 
轡は古代には、銅や鍍金を加え鉄は白磨きをして磨地に黒漆塗りなどの装飾を施した、
 
銀轡や塗轡など知られています。中世の銅轡には鏡板の厚いものと喰の太いものが好まれて使用されました。
 
鉄轡は中世以降口の硬い馬に対応する為、喰が細くなり、時代が下がるにつれ
 
鏡の模様が装飾的な図柄が使用されるようになりました。
 
そして中世末期から近世にかけて簡素な鏡轡が広く使用されるようになり、
 
特にこの頃十文字轡が普及しました。武家の間では十文字轡の丸に十字を轡紋として家紋として
 
使用されるようになりました。紹介した「伝・須貝形部の轡」の詳細な年代は不明ですが、
 
16世紀代(桃山時代)とされる京都妙心寺所蔵の十文字轡とも似ていています。
 
一般的に文献等で指摘されているように中世末期から近世の所産と考えています。
 
引用参考文献
高橋重右衛門著(1989)「せきかわ歴史散歩」関川村
(1992)「日本馬具大鑑」第3巻 中世 中央競馬会
(1992)「日本馬具大鑑」第4巻 近世 中央競馬会
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伝・須貝刑部愛用の轡
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京都・妙心寺 轡
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五頭山麓の断層帯・新発田-小出構造線に南北に連なる低丘陵地があり
 
そのうちの本田山、陣ケ峰の西麓に滝沢集落がある。
 
滝沢には沢を堰きとめて農業用灌漑用水池の礼光寺池があり堤の下流側を堤下(ツツミシタ)と呼んでいる。
 
丘陵地の西側には新潟平野の沖積地に水田地帯が広がっている。
 
低丘陵地と水田地帯の変換点付近の水田や少し小高い丘陵上の緩斜面に
 
縄文時代、古代の遺跡が広がっている。
 
恐らく沖積地に埋没した丘陵地上に遺跡が確認されるものと思える。
 
地元のSさん宅に所蔵している土製品や石器類を見せていただく機会があった。

所蔵されている遺物は自宅の池を掘った時や、水田で採集されたものだという。
 
遺物は尖頭器、小型磨製石斧、磨製石斧、打製石斧、石鏃、縄文中期の板状土偶(河童形土偶)、玉類がある。
 
尖頭器はチョコレ-ト色の硬質頁岩の肉厚剥片を素材とし木葉形の仕上げている。
 
一部素材の礫面がみられる。ただし最大幅は器形の半分より先端側にあり少しくびれていて細身である。
 
尖頭器は旧石器時代終末期から縄文時代初頭に卓越し徐々に減少していく。
 
本例は縄文時代初期の年代の所産と思われる。
 
玉類は、あまり見慣れない石材と製品で、ちょっと自信ないものの弭(ゆはず)形石製品だろうか。
 
孔が貫通して穿たれている。これは、弓の弭に取り付けられた飾りと思う。
 
近隣では自分の知っている限り類例が見られないようである。
 
小型磨製石斧は蛇文岩製で遺跡周辺に産地は確認されていないので他からの搬入品と思われる。
 
特に新潟県糸魚川周辺で蛇文岩の産地がある事は知られていて
 
原産地周辺で蛇文岩を利用した生産活動も古くから行われていて、古墳時代の南押上遺跡で蛇文岩素材の玉作遺跡、
 
同市縄文早期~前期の大角地遺跡で蛇文岩製磨製石斧製作が行われていたようである。
 
土偶は頭頂部が平坦になっていて河童形を呈する事から
 
河童形土偶と呼ばれている。
 
縄文中期前半に現れた。板状の体部は下半分が失われている。
 
全体に磨滅が進んで模様が判別しにくいが胸の部分に女性を示す乳房後頭部に髪形や、
 
体部に衣服等を沈線で表現されている。

他に未掲載の土器片2点があり深鉢で、半裁竹管による隆帯文、格子目文のある土器で
 
縄文中期初頭~前葉の北陸系の土器が数点ある。

引用参考文献
2011「北陸新幹線関係発掘調査報告書ⅩⅧ 南押上遺跡」新潟県教育委員会 財団法人 新潟県埋蔵文化財調査事業団
2006
「北陸新幹線関係発掘調査報告書Ⅴ 大角地遺跡」新潟県教育委員会 財団法人 新潟県埋蔵文化財調査事業団
 
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尖頭器
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弭形石製品か
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穿孔されている
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河童形土偶正面
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河童形土偶背面
 
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小型磨製石斧
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打製石斧
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打製石斧
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打製石斧
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磨製石斧
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不定形石器、石鏃
 
 

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