今回紹介するのは、せきかわ歴史と道の館に常設展示されているものに
「伝・須貝形部の轡(くつわ)」が展示されています。
轡(くつわ)は、馬の口にはませる金具で、手綱を付けて馬を制御するのに使用するものです。
丸に十文字の小鏡。立聞壺が喰で繋がっています。
残念ながら手綱を取りつける引手壺はや手綱は現存していません。
少し興味を持ったので参考書等で調べてみました。
轡については「せきかわ歴史散歩」にも紹介されていています。
それによれば、鎌倉時代の関川村が荒川保と呼ばれていたころ、
河村氏を名乗る人物が建長7年(1255年)、関東下知状に記載されているのが初見ですが、
それは「越後国小泉庄内牛屋条地頭色部右衛門尉公長予同国荒川保地頭河村小太郎景秀与相論之事」に
おいて確認できます。(新潟県史 資料編所収)
当時、荒川保地頭・河村小太郎景秀が地頭として当地を支配下においていた事がわかります。
当地に着任した年代や様子を記したものはありませんが、
伝承では、須貝形部が河村氏と共に当地にやって来た際中束に土着しました。
元来弓の名手であった形部は、日没の頃、弓矢で熊を射たが射止める事ができず取り逃がしてしまいました。
翌朝、熊の血痕を頼りに探していたら、山の中の湯壺で湯あみをしているのを発見。
熊は逃げてしまいましたが熊のおかげで温泉を発見したという事です。
須貝形部は地元の有力者の津野源太夫に協力してもらい湯沢の地に湯治場を開き
形部経営の宿は本鎌倉屋、源太夫経営の宿は田屋と称したという事です。
湯沢の須貝叉右衛門家は須貝形部の子孫で、轡は須貝形部使用の轡とされています。
轡は古代には、銅や鍍金を加え鉄は白磨きをして磨地に黒漆塗りなどの装飾を施した、
銀轡や塗轡など知られています。中世の銅轡には鏡板の厚いものと喰の太いものが好まれて使用されました。
鉄轡は中世以降口の硬い馬に対応する為、喰が細くなり、時代が下がるにつれ
鏡の模様が装飾的な図柄が使用されるようになりました。
そして中世末期から近世にかけて簡素な鏡轡が広く使用されるようになり、
特にこの頃十文字轡が普及しました。武家の間では十文字轡の丸に十字を轡紋として家紋として
使用されるようになりました。紹介した「伝・須貝形部の轡」の詳細な年代は不明ですが、
16世紀代(桃山時代)とされる京都妙心寺所蔵の十文字轡とも似ていています。
一般的に文献等で指摘されているように中世末期から近世の所産と考えています。
引用参考文献
高橋重右衛門著(1989)「せきかわ歴史散歩」関川村
(1992)「日本馬具大鑑」第3巻 中世 中央競馬会
(1992)「日本馬具大鑑」第4巻 近世 中央競馬会
高橋重右衛門著(1989)「せきかわ歴史散歩」関川村
(1992)「日本馬具大鑑」第3巻 中世 中央競馬会
(1992)「日本馬具大鑑」第4巻 近世 中央競馬会
伝・須貝刑部愛用の轡
京都・妙心寺 轡