丸田館については以前紹介した(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/51499491.html)ので
 
そちらも参考にしていただきたい。
 
過日、新潟市在住のNさんからの情報で五泉市の丸田館付近の溝から漆器椀が顔をのぞかせていたのを
 
発見・採集して自宅に保管してあるという。
 
興味を持ったので知識はゼロに等しいが遺物を拝見する機会があった。
 
ご自宅にお邪魔したのが夕方で、薄暗い場所であったが写真を撮影させていただいた。
 
光不足で思うよな写真撮影はできなかったがピンボケであるが紹介する。
漆器椀は劣化防止の為か、水に浸して保管してあり内面赤漆、外面黒漆で口縁部は破損して失われている。
 
外面には黄漆(三硫化ヒ素)による型押し文が確認できるが鮮明ではない。

どうみても縄文の漆器に見えないので、県内の古代~近世の漆器について出土事例を探してみた。
 
8世紀~10世紀は加茂市馬越遺跡、10世紀~11世紀初頭上越市一ノ口遺跡、
 
12世紀後半から13世紀の柏崎市鶴巻田遺跡、
 
13~14世紀は新潟市(旧白根市)の小坂居付遺跡・新発田市荒神裏A遺跡、
 
13世紀~14世紀は新発田市箱館、15世紀代の新発田市荒神裏A遺跡、新発田市桑ノ口遺跡。
 
時間巾が長い漆器が出土した遺跡は村上市窪田遺跡で中世~近世、
 
胎内市下町・坊城遺跡であり胎内市下町・坊城遺跡例は12世紀から16世紀代の基準資料にもなりうると思う。
 
新発田城(新発田市)などで類例がある。
 
今回紹介した漆器椀は当初、底部が平高台であったが時間の経過とともに僅かに高台を削り出す高台、
 
そして低い高台から高くなるものと、低高台のものに形態変化していくようである。
 
器形もその時期に使用され土器、陶磁器の写しに近いものがあったようである。

底部の輪高台は低く削りだされている。漆器の編年については、
 
9世紀中葉から漆器椀や皿が出始め、当初は、高台は底部の厚い平高台であったが
 
僅かに底部の高台の内側を削り出した高台に変化し、やがて時間を経るにしたがい
 
高台の高さが高くなるものと低い高台のものが19世紀にも存続したようである。
 
14世紀中葉~後半には内面赤色製品が増加してくるという。
 
高台は外側にやや踏ん張る低い高台で、15世紀代には高級品の内外面赤の皆朱漆器がみられるようになる。
 
紹介した丸田館採集の漆器椀は、年代の分かるような共判遺物が無い為年代の特定は難しい。
 
特に漆塗膜の科学分折など実施したわけではなく目視観察と形態の特徴などから判断であるが、
 
3~4単位の漆絵で構成するのも戦国期から近世に見られるもので、中世のものは朱漆絵のものが多いが、
 
黄漆は近世から使用されるもので、本資料のように黄漆を使用したものが
 
近世新発田城出土の漆器に見られる。
 
黄漆絵は金薪絵の代用品で江戸時代以降の所産と思う。
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内面
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底面
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側面