2012年11月

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遺跡近景
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縄文土器
 
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田上町民俗史料館展示品
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採集ピッチ塊
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旧石器の可能性がある石器
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採集石器
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田上町大字塚野丁に所在する。現況はやや、起伏のある丘陵上の畑地でここで旧石器時代、
 
縄文時代、平安時代、中世の遺物が散布している。
 
護摩堂山を水源とする西海持川南側の台地上に立地していて標高30m前後である。
 
本遺跡で、同町内で他にまだ未発見の旧石器時代の遺物が表面採集され資料紹介されている。(田中1989)
旧石器時代の資料は、ナイフ形石器2、彫刻刀形石器1、石刃2の計5点である。
 
紹介された石器群には被熱はじけを起こした物が含まれている。
 
何れも微光沢を有する頁岩を素材としている。
 
田中氏はナイフ形石器の検討から、全体として所謂、杉久保型に近い形状を示すが、基部に打点を残し
 
石刃の形状を大きく変えない。刃潰し状調整が基部、先端部の左側縁に施される。
 
素材の長軸と石器の長軸が一致することなど挙げ、富山県直坂Ⅰ遺跡、山形県金谷原遺跡出土の
 
ナイフ形石器がこれに相当するとしている。
 
縄文時代の遺物は、採集遺物の一部が田上町史、加茂市史上巻で紹介されている。
 
文献では縄文後期の遺跡として古くから知られていたようだが、
 
実物を見たわけでもないので後で見間違え、勘違いの可能性大であるが
 
紹介された拓本から大雑把検討してみると三十稲葉式、南三十稲葉式の後期前葉、三仏生式の後期中葉。
 
他に町史には石鏃、凹石、小形磨製石斧、土製耳飾り、アメリカ式石鏃、スクレ-パ-と記載されて紹介されている。
 
中世の珠洲焼擂鉢片が採集されているという。(アメリカ式石鏃?に伴うような弥生土器は採集されていないようです)
 
他に平安時代の須恵器杯蓋片、甕片。中世の青磁片少量が現地踏査の際確認できた。
 
近くの川ノ下遺跡も同じ遺跡の可能性が高く500gのピッチ塊が採集されている。
 
ピッチはアスファルトで、縄文時代後期後半から晩期にかけて北海道から秋田県、新潟県、山形県などで
 
産出した天然アスファルトを使用して石鏃などの石器や漁具、骨器などの接着や
 
土器の補修に用いられていた。
 
本遺跡周辺の丘陵地でも原油の産地で、このピッチ塊がこの周辺で産出したものとは言わないが
 
大量のピッチ塊はそう簡単に手に入るわけでもなく、近くで産出された可能性も捨てきれない。

引用参考文献
1989田中靖「新潟県塚野遺跡採集の石器」 『新潟考古学談話会会報』第3号 新潟考古学談話会
1994「田上町史」田上町
1975「加茂市史」上巻 加茂市

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鮮明に残存する本丸付近の曲輪群
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空堀
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山頂神明社
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現地に貼られていた説明文
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加茂山城は、山頂付近が調査の為、刈り払いされ曲輪群が明瞭に残っているのが確認できました。
 
山頂には神明神社がありその壁に加茂山城跡について「加茂の風土記」で長谷川昭一さんが
 
説明された文章や縄張り図(鳴海忠夫氏原図)が掲示公開されていたので掲載させていただきました。
 
また、加茂山要害の山頂付近から青銅製和鏡(加茂民俗資料館常設展示品)が出土していて
 
別項で紹介したい。

「加茂市市街地の南側。本量寺と耕泰寺の裏山一帯に戦国時代の山城の跡が残る。
 
上杉景勝が太田源左衛門など6人の武士を置いた加茂城の跡と思われる。
 
南小学校裏の横道から急こう配の石段を登り100m位で新宮稲荷に着く。
 
このすぐ上が三ノ丸、深い空堀の右手に二の丸、頂上の祠がある広場が本丸で、
 
各所に帯曲輪がある。加茂山と若宮方面へ延びる2本の尾根にはそれぞれ数カ所の空堀が切られ
 
防御を固めている。天正6年(1578)に謙信の急な死により景勝と景虎の後継者の座を巡る「御館の乱」が
 
起こった。この時、加茂城は景虎方の拠点となり、
 
村松地方の菅名綱輔に包囲され、激しい戦の末に落城した(天正8年4月22日付綱輔宛景勝文書『加茂市史資料編一』)
 「御館の乱」で、勝利した景勝は越後・佐渡から信濃川の川中島まで
 
四郡と出羽の庄内三郡まで領土を広げ、各地の主要な城を番城と称して城将を置き、
 
そこに武士を配置した。番城は単に軍事上の重要な所であるばかりでなく、
 
領内の村々を支配する中心地でもある。加茂城は近くの三条城・大面城・菅名城とともに番城とされた。
 
文禄3年(1594)3月の加茂城のメンバ-は以下のとおり(『加茂市史』資料編1)。
 
城将は村上出身の流れを汲む本庄豊後守顕長で当時の知行高2298石である。
 
実際に、加茂に駐留した在番衆が6人。筆頭は知行100石の太田源左衛門といい、
 
埼玉県岩槻城主太田資正の孫。後に清兵衛と名を改め、直江兼続の配下になり150石となる。
 
高野与十郎・高橋内記・根岸権三郎・水橋宮内・寺島和泉の5人は52石3斗と同じ知行の武士である。
 
このうち、高橋内記は後に直江兼続の与板組に配置され、150石を支給されている。
 
太田と高橋の子孫は米沢藩で足軽組30人頭となった。
 
加茂城は、慶長3年(1598)に上杉氏会津への国替えにより廃城となったが、
 
慶長5年(1600)の「越後一揆」の戦乱では、会津から侵攻した一揆の拠点として利用され、
 
再び激しい戦場と化すことになる。(長谷川昭一)」

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知人宅に、お邪魔した時壁にぶら下げてあるものに興味が惹かれた。

以前にも、民俗関係の文献に紹介されていた護符に似ていて、

他の護符と一緒に折り込まれていたが直ぐそれとわかった。

この護符は、新発田市内で配布されたものではなく護符に日光山輪王寺と記載されていて、

栃木県日光の寺院で作られている鬼門除けの護符らしい。

以前にこの符の所有者が旅先で購入したものらしい。

家族の名前を書いて北東に飾ると鬼門除けになるという。

ここに鬼がしゃがみこんだ絵柄の護符が挟めてあった。



この鬼の姿は、平安時代の天台宗の僧で良源(912~985)という実在の人物で、おみくじの創始者であり

元三大師(がんさんだいし)とか慈恵大師(じえたいし)の名前で知られている。

比叡山延暦寺の中興の祖である。良源が感得した2種類の護符は有名で、

角大師と豆大師が知られている。角大師は、疫病除去、病気平穏、厄難祓いに効能があるとされる。

角大師についての逸話がある。

良源73歳の貞観2年。居室で止観を行じていたところ、風が漂い妖しい気配を感じたので

「そこにいるのは誰か」と尋ねた。

すると「疫病を司る疫神である、お前の身体を侵しに参った」と答えた。

良源が左手の小指を差し出し、「ではこれに憑いてみよ」というと、その直後悪寒が全身に走り発熱。

苦しさもたまらなくなった。そこで、自ら鬼形となって指弾すると、疫病神も退散し苦痛が癒された。

この体験から、疫神に侵された衆生は逃れる術をしらず、哀れと感じ、

弟子を集め鏡に映った自分の姿を写生するよう命じた。

すると、その姿は徐々に変化して鬼の姿に変化した。

弟子たちは恐怖でおののき、写生どころの話ではなかった。

しかし、明普だけがその姿を写しとっていた。

やがて禅定から戻ると良源はそれを見て、それを元画として版木に彫り御札にするように申しつけた



御札が刷り上がってくると、良源は開眼供養をし「家々の戸口に貼ってもらうようにしなさい。

そうすればその家では疫神の害を受ける事はないだろう」と告げた。

以来、この御札は角大師として疫病をはじめ、すべての厄災を除き、

盗難や邪悪な心を持つを者は進入できないなど幅広い魔よけの習俗となっている。

角大師の秘策として、護符を他人に知られないように仏壇に祀り祈念すれば

良縁が結ばれるとされている。


新発田市の民俗関係の文献に角大師の護符が紹介されていて「オダイシコサマ」と呼ばれていたそうである。

「虎丸(新発田市)新光寺オダイシコサマのお札」「楠川(新発田市) 虎丸新光寺の鬼のお札が配布される。この札は火傷をした時、火もどしのお護符とされる」と紹介されている。


引用参考文献
豊島泰国(1999)「日本呪術全書」原書房
1972「民俗」上 新発田市史編纂委員会

湯川の五社神社は、境内の御来歴によれば祭神は、石動彦尊、国侠槌尊、岡象女命である。
 
五社神社の鎮座は、大同2年(807)で、文化3年(1806)に失火。文化8年(1811)再建し現在に至っている。
 
神社自体、石川県の白山比咩神社の系統をくみ、大同2年に湯川の産土神として創建された。
 
五社神社の神楽舞は文化8年の再建時に神楽舞が行われた事が記録にあり、
 
出雲系(大和神楽)の神楽舞が祭礼で舞われ、毎年神社例祭の新年祭(1月1日)、春祭(4月15日)、
 
秋祭(9月15日)、新嘗祭(11月23日)に拝殿で行われ沢山の人で賑わう。

今回、湯川の方の紹介で、珍しい壺を持っている方がいらっしゃるという事を知り
 
地元の方の紹介で、そのお宅を訪ねた。五社神社の宮司さんで、格別な御好意で拝見させていただきました。
 
見せていただいたものは、中世珠洲焼叩壺1点、金環1点、古墳時代の無台碗2点で
 
古墳時代の碗については別稿で紹介した。(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/53396275.html
 
神社境内のイチョウの木付近には、昭和初期まで塚が2基あったそうで、
 
祖父の時代に宮司さんのお宅に行く為の通路を作る時、塚も削平してしまい、
 
今は壊滅して確認できない。道路を挟んで向かいには,墓地が隣接してある。
 
塚の削平時、珠洲焼叩壺と刀2振りが出土したという。刀については拝見できなかったが
 
珠洲焼叩壺は、頸部から口縁部が全周失われていて(意識的に破壊?)、
 
それ以外は遺存状態が良好である。体部外面に頸部直下から平行叩目の打圧痕が右下がりで残る。
 
内部表面に押圧痕がある。頸部、胴部、底部の鉢部分はそれぞれ別作りで製作し、
 
紐叩打成形で全体見られる。全体に体部は倒卵形を呈する。底部外面には、砂目痕が残る。
 
頸部は失われていて、広口の口縁が付くものと思う。
 
全体の形は一部不詳ながら、全体の特徴から概ね吉岡編年を参考にすると
 
概ね平安時代末~鎌倉時代前半(12世紀末~13世紀前半)と考えている。
 
これまでの証言から、ふと考えたのが経塚の可能性はないのだろうか?という事である。

経塚の経を納めていた経筒の本体、外容器の蓋は失われているが、
 
それを埋納した際の外容器の可能性はないだろうか。
 
他に、この時期(12世紀末~13世紀前半)は、墳丘墓が卓越する時期であり、
 
以前存在した2基の塚は経塚?または墳丘墓?の可能性はないだろうか?
 
遺跡の性格を明らかにするためには、遺物の出土状況が重要な鍵を握ると思われる。
 
肝心の塚や経筒が確認できない事など現状では、憶測の域を脱し得ない。
 
 
引用参考文献
吉岡康暢(1994)「中世須恵器の研究」吉川弘文館
1989「珠洲の名陶」珠洲市立珠洲焼資料館
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五社神社
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御来歴
 
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伝・塚跡
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珠洲焼叩壺
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叩目痕
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底部外面
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経塚と断定できないものの、このような様子をイメ-ジしてみました。
 
 
 

 
過日地元の人から、湯川の五社神社の宮司さん宅に珍しい皿や甕を家宝として、
 
所蔵していらっしゃるという事を聞いた。宮司さんの格別の御好意で拝見させていただく機会があった。
 
拝見させていただいた所蔵品の内容は、珠洲焼叩壺1点、土師器長甕1点、土師器杯2点、銀環1点(採集地点不詳)である。
 
珠洲焼叩壺は(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/53402151.html)で紹介した。
 
そのうち土師器類について紹介する。

宮司さん本人が、直接採集されたもので
 
長甕、土師器杯のそれぞれ底部に「43.6.12 湯川地内 行屋崎より出土」の紙が貼られていて、
 
内1点の張紙は内容が滲んで不鮮明であるが土師器類は同じ場所から出土したものだという。
 
昭和43年6月頃、湯川集落の西方に広がる水田地帯で、
 
土地改良工事が行われ五社川の右岸付近の用水路掘削の際、多量の土器類が出土し、
 
その多くは散逸して失われたという。

土師器の年代観は概ね6世紀代・古墳時代後期と考えている。
 
今回拝見させていただいた土師器類で類似している遺物が出土している類例は、
 
6世紀代と考えられている胎内市野付遺跡であり、それと近い時期と考えている。

土師器長甕
「く」の字状に外反する口縁部、長胴気味にやや膨らむ体部、平底の器形を呈す。
 
ハケ目調整が体部内外面にみられる。
 
土師器杯
内面に黒色処理を施し磨きをかけたものと、非黒色処理のものがある。
 
丸い底に強く外反する口縁部の器形である。
 
黒色処理は水漏れの為に破損する割合が高く、それを防止する為に行われ、
 
木の葉、もみ殻など発煙時に煤の出やすいものを燃焼物にうつ伏せに土器を据えて
 
炭素を吸着させる方法など、他にも色々な方法が実験等で推定されている。
 
銀環(採集地不詳)
古墳時代から飛鳥時代にかけて装身具や副葬品によく見られるもので、
 
リングの一部が切れていてイヤリング、刀などの吊具などの使用が想定できる。
 
理化学分析を実施したわけではなく目視観察で成分など推定したので、
 
今後の研究成果などで修正される可能性大である。鍍銀が剥離し、
 
銅成分が錆化した際に酸化されて発生する緑色の緑青が所々みられる。
 
青銅製の生地に銀色の皮膜が見られる事から銀環ではないだろうか。
 
宮司さんの御尊父様が採集されたもので詳細な採集地点は不詳である。
 
紹介した行屋崎遺跡で、一緒に採集されたものではないが合わせて紹介した。
 
引用参考文献
2007「天野遺跡2次 野付遺跡2次」胎内市教育委員会
 
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所蔵品土師器類3点
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長甕底部
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 土師器杯底部の調整痕
 
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内黒土師器杯
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銀環(出土地不詳)
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田上町 仮称・行屋崎遺跡付近
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仮称・行屋崎遺跡付近で須恵器杯の細片が確認され遺跡と再確認できました
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