2012年10月


国道403号線沿いの羽生田地区に式内社・土生田神社があり当地が中世の城館跡にもなっている。

式内社・土生田神社は、社名と地名の一致から式内社とする根拠と考えられていているが,
 
明治16年(1883)の由緒書に「初メ字八幡ニ鎮座ノ処明治五年当地ニ移ス」とあり
 
現在地より北西200mの羽生田字八幡にあった。
 
祭神は埴安姫命(はにやすひめ)である。日本書記によると、伊ザ冊尊(ザ・・PCで変換できませんでした)
 
(いざなみのみこと)が亡くなる前に土神埴山姫と水神罔象女(みずはのめ)が生まれたとある。
 
良質の粘土で陶器を作る人々が祭器を作る粘土の神・埴山姫を祀り土生田神社を創建したと推定されている。
 
土生田神社は「神祇官諸社年貢注文」(『平安遺文』)に永万元年(1165)6月、
 
神祇官に真漆一斗を献上した」という記録があるという。それ以外の史料はないという。
 
現在の本殿は明治6年(1873)、拝殿、幣殿は昭和34年に建造された。例祭は4月15日、9月15日である。
 
境内は、護摩堂山城主羽生田周防守の館跡と伝え、
 
平安時代末期、前九年の役で源義家に敗れた阿倍の残党黒鳥兵衛が越後に入り、横暴、略奪を繰り返し
 
農民を苦しめた。護摩堂城主羽生田周防守は、黒鳥軍に包囲され、水源を占拠され苦戦になった。
 
その際、白米を滝に見せかけて水が豊富にある事を敵に誇示しようとしたが援軍も無く全員討ち死にした。
 
本丸跡北側から出る焼米はその時のものだという。
 
江戸時代に越後平野一帯に広まった黒鳥伝説に纏わるもので確実性に乏しい。
 
境内には築山が見られ境内の周囲には空堀が確認できる。
 
地方史によれば境内から須恵器片が採集されているというが、未確認。踏査の際も確認できなかった。
 
引用参考文献
1994「田上町史」田上町
花ヶ前盛明「越佐の神社」新潟日報事業社
 
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境内の築山
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境内西側の空堀
 
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関川村下土沢の白山神社は以前に紹介しました(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/40993766.html)。

伝・白山神社の棟札が関川村の文化財指定となっていて
 
村史などに「「元慶2年(878)8月12日 白山大権現 武運長久 吉武」と墨書されている棟札が紹介されています。
 
願主の吉武という人物は元慶の乱の関係者ではないかと推測されています。
 
棟札は肉眼で見る限り墨書が薄れていて判読が難しい。
 
あちこち史跡巡りをしていて、墨書された経石や木簡、土器に巡り合う事があったが
 
肉眼で観察できる範囲でしか判読できず、そのまま置き去りになる事がありました。
 
前から墨書を判読するには赤外線写真が有効と聞いて、あちこち撮影現場の見学に行って聞いたが
 
全て機器を揃えるとなると費用がかかり趣味の域を通り越してしまいます。
 
なんとか手軽に撮影できないか、カメラ店に赴き赤外線写真用のゼラチンフィルタ-が
 
1000円程度で購入できる事を知っていつも使用しているカメラに付けて棟札の撮影をやりました。
 
・・・結果ピンボケで使い物にならず。もっと手軽に撮影できるものは無いか探していたら、
 
ありました。ヤシカから赤外線カメラが数千円で買う事ができるを知り、値段も手ごろだったので購入しました。
 
早速、テストすることにしました。天気の良い日にもう一度お願いして棟札の撮影を実施しました。
 
赤外線モ-ドで撮影。まだ数枚しか撮影していないがまずまずの成果でした。
 
肉眼で見えない墨書も微かに見えるようになりました。

照射用赤外線ランプはカメラについているので買わなくて済みます。
 
手軽にメモ程度の赤外線写真が撮影できます。もちろん、通常の写真も撮影可能です。

使用カメラ
「EZ Digital F537IR」
 
(棟札)
この棟札は、台かんな仕上げによるものと思われ、
 
室町以降に台かんなが伝来して以降の板材を使用しているものと考えています。
 
墨書に見える元慶2年(878年)の棟札と捉えるよりずっと後世(概ね近世以降)のものと考えてます。
 
総高35.5㎝、下幅7ccm、肩幅7㎝。しょうぎ頭1㎝、厚さ0.8㎝で杉材を使用しているのでしょうか。
 
棟札は中央に主文が記入される事が多く今回の場合「白山大権現」、その下に造営目的。
 
一般に建物の造営年月日を表面主文の左右に分けて記載されるという。
 
それに従えば、元慶2歳戌は造営年月日かもしれませんが板材の推定年代と一致しないのでどういう意味を持つのか不明です。
 
主文には神社造営時の目的である文字「奉造立・・・」「奉造営・・・」「上棟・・・」などの文字は、
 
良く観察しましたが分かりませんでした。
 
薄く残る墨痕にその内容があるかもしれません。
 
白山権現の下に小さく「神主」「兼公」その下に横並びで2~3人位の「大工」と
 
その名前のような文字が見えます。

裏面は「武運長久」「願主」「吉武」の文字が確認できます。
 
「武運長久」の上にも文字が見えますが削除されているようです。
 
「吉武」の下にも名前のような文字痕がわずかに確認できますが内容まで確認できませんでした。
 
当地が江戸時代には、村上藩となり次いで幕府領、そして村上藩領であった事が指摘されていて(関川村史、地名辞典)、
 
注目しているのが村上藩の家臣で吉武姓が見えることです。
 
何か関連があるのかないのか、興味ある点であります。
 
「武運長久」の願文は藩主の武運長久を願うものが多いと指摘されていて(佐藤1995)、
 
それに従えば当神社が藩の息のかかった神社であった可能性も捨てきれないものの
 
仮説の域を出ないでいます。
 
「白川風土記」によれば神亀年間(724年~729年)に観請された神社と記載があり、
 
蒲原神社の可能性を指摘しています。
 
「新潟県神社寺院明細帳」によれば、
「無格社 白山神社」
「祭神 白山比咩命」
「配祀 伊弉諾尊」
「由緒 創立年月不詳。「宮殿再建立の棟札 明徳二年八月ト有之候」朱書・・・「明徳二年八月再建ノ棟札存ス 当村ノ産土神ナリ」

と記載があります。

再建の年代は、出典は明らかではありませんが関川村史によれば
 
「蒲原神社を合祀の白山神社は土沢地内白山平に鎮座していたが、
 
明和3年(1766年)に現在位置に遷宮している」と記載があります。
 
しかし、「新潟県神社寺院明細帳」には「宮殿再建立の棟札 明徳二年八月ト有之候」とあり
 
朱書で「明徳2年(1391年)八月再建ノ棟札存ス」とあります。
 
寺院神社明細帳の明徳2年や関川村史の明和3年の文字は今のところこの棟札から確認されませんでした。
 
薄く残る墨痕にそのような内容があるのか無いのかこれからの課題です。
 
板材の推定年代と表面に記載がある元慶2年の年代が一致しません。
 
その理由として次のような事が考えられます。
 
今回紹介した白山神社は式内社・蒲原神社の論社である事が白川風土記に記載があります。
 
式内社の論社で式内社を目論んで棟札を偽造した例が報告されています。
 
静岡県榛原郡本川根の敬満大井神社で、本川根町千頑に鎮座している。
 
この神社は、明治維新の際、土地の有力者達が式内社に格上げを目論見で棟札を偽造するなどしたという
 
報告例があります。
 
紹介した棟札にある元慶2年の年号はいつしか偽装され、
 
式内社格上げを目論見、同様の事があった事も考えられなくもないように思われます。
 
詳細はこれからの研究成果に期待したいと思います。
 
引用参考文献
佐藤正彦(1995)「天井裏の文化史」講談社
「白川風土記」
(1992)「関川村史」関川村
吉川金次(1984)「斧・鑿・鉋」ものと人間の文化史 法政大学出版局
近藤豊(1972)「古建築の細部意匠」大河出版
宮本勉,小田寛「加速器質量分析法による
智者山神社。敬満大井神社棟札等の14C年代測定」(ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/.../KJ00000187392.pdf)
 
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白山神社
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今回使用した赤外線撮影機能付きカメラ
(犯罪目的ではありません)
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棟札の赤外線写真
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大工の名前「定」の下の文字は何でしょうか?
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吉武の下の部分・・何か文字が見えます。
 
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寺院神社明細帳(白山神社)
 
 
 
 

青海神社は加茂市宮山の加茂山公園に鎮座する。
 
当時の朝廷が編纂した延喜式式内社(927年編纂)の青海神社は、
 
蒲原郡に青海郷があり青海神社を創建した。また青海首(おうみのおびと)一族の本拠でもあった。
 
祭神は、椎根津彦命と大国魂命である。
 
日本書記の神武紀にによれば椎根津彦命は神武天皇の東征時に功労があり
 
倭国造(やまとのくにのみやつこ)に就任。『新撰姓氏禄』(815年)に
 
「青海首、椎根津彦命之後裔也」とあり、青海首は、椎根津彦命の子孫にあたる。
 
頚城の青海神社もこの頃創建されたという。「神社明細帳」には創立年不詳。
 
「越後風土記節解」に神亀3年(726年)創建とある。
 
青海首は倭国造が崇神天皇7年以来奉斎してきた大國魂大神の神主に任ぜられた事により、
 
大和直(やまとのあたい)から別れた青海首が祖神とともに奉斎した。延暦年間(794年)以降、
 
京都賀茂別雷神社と賀茂御祖神社の分霊を青海神社に遷祀したことから
 
青海郷は、京都青海神社の神領になった。
 
延文2年(1357年)7月青海神社・賀茂別雷神社・賀茂御祖神社の三社本殿が再建。
 
天文14年(1545年)4月20日後奈良天皇は国家静謐(せいひつ)と五穀豊穣を祈願し勅使観修寺大納言を
 
越後に派遣。宣名(せんみょう)と祭文を青海神社に奉納した。
 
新発田藩主溝口宣直は万治2年(1659年)青海神社に社領三町歩を寄進し、社殿を再建。
 
明治5年(1872年)、県社に列せられた。
 
翌年加茂別雷神社の本殿に青海神社と加茂御祖神社の本殿を合殿した。
 
<経塚関連遺物>
青海神社境内から県文化財に指定されている経塚関連遺物が出土している。
 
新発田藩主溝口直温の命で、加茂神社再建の為、神社敷地を整地の際、
 
杉の大木の根方より銅製経筒(高さ24㎝、口径10.5㎝、)が出土し、
 
「倉持宗吉 菅原氏治承二年六月二十四日」の刻銘がある。
 
また、昭和15年境内から松喰双鶴文鏡一面、刀子一口などが出土し県の文化財に指定されている。

他に加茂市民俗資料館が加茂山公園内にあり、青海神社境内及びその周辺に青海神社遺跡があり
 
古代~中世の遺跡である。
 
眼前に加茂川が流れ左岸開口部付近に位置する。
 
昭和38年の市民体育館造成工事の際に土師器数十点が出土。
 
中には図示可能な柱状高台とみられる土師器が出土し加茂市民俗資料館に展示してある。
 
柱状高台は県内では資料数が少なく、貴重な資料である。本遺跡から出土したものは
 
資料紹介がされていて調査者は12世紀後半と評価している。(伊藤2000)
 
引用参考文献
花ケ前盛明(2002)「越佐の神社」式内社六十三 新潟日報事業社
伊藤秀和(2000)「加茂市青海神社遺跡出土の柱状高台皿について」『越佐補遺些』5号 越佐補遺些の会
 
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青海神社鳥居
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青海神社本殿への参道
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本殿
 
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平安時代後期(治承2年銘銅鋳製経筒と経筒外容器の陶製四耳壺)・古川氏所蔵
 
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青海神社遺跡出土柱状高台(加茂民俗資料館展示品)
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×・・・青海神社 △・・・青海神社遺跡
 
 

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