2012年08月

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公会堂脇から河内神社の鳥居遠望
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河内神社本殿
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神社本殿の額
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中世板碑
 
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桐箱に収められた奉納鰐口
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桐箱の蓋(表)
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蓋の裏書
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バラバラの鰐口をひとつにまとめたもの
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文禄5年の針書銘
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□□九朗右衛門尉の名前が確認できました
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(坂詰1980)より)『図録 歴史考古学の基礎知識』柏書房
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慶長瀬波郡絵図の写
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村上市の河内集落は国道290号の村上市~関川村の途中から
 
百川に沿って上流に向かうと河内集落がある。
 
山間地で鳶ヶ沢、荒沢などの沢水が合流し百川の右岸に形成された集落である。
 
文禄~慶長年間の瀬波郡絵図には「色部分桃川より色部分」とあり、
 
中世期には小泉庄色部領であった事がわかる。
 
伝承では、雲上佐一郎の従臣・斎藤綱茂が追っ手から逃れて当村に来て、集落の開発を行なったという。
 
地元の方の話では斎藤九郎左衛門が村の創立者という。
 
集落の公会堂脇の道路を行くと鳥居があり、眼前を流れる百川の南側の小高い山中に河内神社がある。
 
神社の所在する場所は字隠家(かくれや)と呼ぶ地名で、雲上佐一郎伝説
http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/44730110.html)に出てくる神社に該当し
 
佐一郎の伯父の尹実卿がこの地に隠れ住んだ場所と伝え、京軍に探しだされ討ち死にした場所という。
 
他に字「見堂」の地名(現在水田)が神社と百川を挟んで対岸にある。
 
現在の境内は昭和30年代に、現在の場所から北側20~30m位北側から移動、新築されたという。
 
旧場所は今も平坦地になっている。創立年不詳。祭神は水波女命。
 
境内に神明神社(祭神 天照皇大神)、出羽神社(祭神 倉稲魂命)が祀られているが合祀され石碑が残る。
 
 
(鰐口)・・市指定文化財
集落で大事に保管管理されているもので、当神社に奉納された鰐口があり、御好意で実見する機会があった。
 
鰐口は社寺の軒下に掛けられていて、撞座に布で編んだ紐の瘤を打ち付け音を出し、
 
神仏に祈願に訪れた事を知らせる為の音具である。
 
新潟県最古の鰐口は阿賀町高徳寺(tp://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/40190225.html)の
 
康永4年(北朝・1345年)南北朝時代のものがある。
 
紹介するものは、同一個体の鰐口片で、大小3つの破片が方形の桐箱に納められていた。
 
桐箱の蓋の表には「奉納 齋藤九朗左衛門」、裏面には「昭和41年3月16日」とマジックのようなもので
 
記載されていた。鰐口については知識不足で、小生の力では勉強不足で多くを報告できないが、
 
坂詰氏の分類や部位名称(坂詰1980)を参考に当てはめて報告としたい。
 
鰐口は、破損しているが推定の大きさは、直径15cm前後、高さ5cm前後である。
 
片側の耳は欠損して失われているが、片方の耳には釘と鰐口を下げる為の環が残っている。
 
両面の撞座とも花弁とも思われる模様がある。
 
撞座の周りに同心円で撞座区、内区、外区を区画する隆起線がある。
 
坂詰氏の分類を参考にすると、肩部の側方観は(ァ)、唇の形状は(イ)、
 
目はその部分から破損しているため確認が難しいが(ア)(エ)に相当か。
 
耳の分類はその他。
 
銘帯に「文禄5年丙甲9月8日(1596年・・慶長元年と同年)」「奉□□(不明)九朗右衛門尉」とあり、
 
寄進日、名前が針書銘が施されている。
 
鰐口の桐箱の名前は九朗左衛門であり一致しない。
 
名字の部分も欠損しているため「齋藤」と確認できなかった。
 
天正~慶長年間(1573~1615)頃の色部氏年中行事によれば、
 
「河内」の地名があり、400刈の田地を持つ3人の百姓が居て、その役として正月11日に10籠、
 
2月9日よりはつごもり炭、夏釜の年貢として10月まで5籠ずつ、10月のつごもりから12月大年までは10籠ずつ、
 
大年には400刈分の年貢分120籠の炭を上納する事が決められていた。
 
現在も集落には、「九朗左衛門」の屋号が残存し、集落の創立に関わった家柄と伝える家がある。
 
(中世板碑)
神社境内の本殿脇に庚申塔や湯殿山などと並んで中世板碑がある。
 
板碑は他のそう遠くではない場所から据え付け直されたものだろう。
 
神社が移設された際、これら石造物も移動され現在位置に移動した可能性がある。
 
板碑の石材は頂上部がやや三角形を呈する花崗岩で、キリ-ク一尊(阿弥陀如来)、
 
その下に蓮華座が認められる。蓮華座は風化が著しく確認しにくいが、
 
蓮台相から14世紀頃の南北朝時代のものだろう。
 
熊野信仰を信奉し、板碑を建立するだけの財力がある有力者の存在を、暗示しているかのようである。
 
引用参考文献
坂詰秀一(1980)『図録 歴史考古学の基礎知識』柏書房
1986『新潟県の地名』日本歴史地名大系15 平凡社
「新潟県史」資料編4 中世2 新潟県 P.753所収

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下土沢遠望
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遺跡周辺
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小さい鉄滓が確認できました。
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荒川左岸の下土沢集落があり、雲泉寺前の林道をしばらく行くと畑地がある。
 
踏査した時は真夏で畑地には雑草がかなり茂っていてそれでも僅かに地面が見える場所に、
 
操業年代不明の鉄滓が確認できた。
 
地形は南東側に緩く傾斜していて林道沿いに段のある削平地が何段かあり現在杉林で荒地になっている。
 
その場所にも同じように段差が認められた。
 
以前、耕作地だった場所と思われ遺跡はかなり攪乱を受けていると思われる。
 
北側には清水沢が流れている。細かい鉄滓以外に、遺物は認められなかった。
 
縄文時代と複合遺跡であるが、雑草が繁茂し地表面を観察できなかった。
 
剥片が数点確認されたが土器等の年代が特定できるものはなかった。
 
関川村では他に上野新の金沢遺跡(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/37550439.html)、
 
地元の口伝で桂周辺の朴坂山山中で鉱滓が落ちているというが未確認。
 
地方史によれば土沢西方の山地を「入出山」と呼ばれていて、紹介した製鉄遺跡との関係はわからないが、
 
越後国荒川保在家注文所収(鎌倉時代末期の頃と考えられている・・県史)に「入出山非人所 在家五宇 蓮妙房跡云々」とあり、
 
蓮妙は修験者、非人はその下で働く金堀と推定した(井上)。周辺に金堀は非人によって行われたと推定し、
 
鍬江沢の金掘り沢、幾地の金股倉、金納山、釜場の地名がありそれらの関係を井上鋭夫氏の考察と絡めて
 
推察している。
 
土沢集落は、正応5年(1292年)頃の荒川保・奥山庄境相論和与状にある「土沢」で、
 
和与境を示す朱線は、「土沢」より西へ向い「切出川」(鍬江川)に至る。
 
 土沢は奥山庄と荒川保に分割された。土沢集落背後の山中に土沢城跡がある。
 
「土沢惣六郎殿」が色部氏惣領の下に出仕している。
 
文禄頃(1592~96)頃の瀬波郡絵図に「加地直江分春日 土沢村」とあり、
 
同絵図によれば中世末頃の関川郷では最大の集落であった。(近世関川郷史料一)。
 
引用参考文献
1986「新潟県の地名」日本歴史大系15 平凡社
1978「近世関川郷史料」1 関川村教育委員会
「新潟県史」資料編4中世二 新潟県
平成4年「関川村史」関川村

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せきかわ歴史と道の館常設展示品の双耳壺
ものさしで概略測定・・・高さ19cm前後、口径9cm前後、底部径11cm前後
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双耳壺頚部拡大
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頚部内面の切り込み(片口として成形)
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壺底部
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双耳壺の耳
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肩部の箆記号
 
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報告書所収
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箆記号各種
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上関城跡は荒川曲流部左岸の段丘に突き出た低丘陵に普請された城郭である。
 
三方が河川に望んでいる自然の要害で小規模ながら平城式丘城に分類できる。
 
 
荒川に架けられた温泉橋が水害後下流に架け替えとなり上関城二の丸に道路がつくため、
 
事前に調査が行われた。調査期間は、昭和45年5月5日~15日までで、
 
奥田直栄氏を調査団長に関川村が主体となって実施されている。
 
その際出土した遺物の一部は、せきかわ歴史と道の館で常設展示されている。
 
出土遺物はそう多くはないが報告書によれば縄文土器、石器、中世では双耳壺、
 
渡来銭の宗銭(大平通宝(初鋳年976年)、皇宗通宝(初鋳年1039年)、元祐通宝(初鋳年1086年)の宗銭)、
 
近世の寛永通宝(文銭・・・実物を見ないとなんとも言えないが江戸時代の寛文年間初鋳のものか)、
 
他かわらけ、小骨片でだったそうである。
 
調査時の遺構は、既に消滅しているので報告書によって紹介する。

双耳壺の出土した遺構は調査区のE遺構でみつかり大きな不整形の土抗である。
 
壺は口縁部を
上向きに斜倒し内部に黒色土が充満していたという。双耳壺近くで木炭、鉄滓が出土している。
 
壺は、少し離れた場所から古銭3点(宋銭)が融着した状態でし土抗の炭化物の塊と相当量の灰、
 
炭化物層に貫入し被熱痕のある扁平な川原石が発見された。報告者は、古銭が宗教祭祀遺跡から
 
出土している実例を上げながら火葬場、やぐら遺跡で実例がある事も指摘している。
 
灰と古銭が無関係と断言できないと報告している。
 
出土遺物中の気になる小骨片が人なのか、他の動物遺体なのか、どの付近から出土したのか等
 
報告書に記載が無く壺や古銭との相関関係は不明。
 
越前焼の特徴的な縦の耳を2個持つ双耳壺について、実見する機会があったので紹介する。
口縁部上端面は水平で頸部内面は直線的に内傾している。
 
頸部外面の中央付近がわずかに肉厚で膨らみがあり段になっている。
 
胴部は肩が張らず丸く、肩部から底部にかけて直線的に内傾している。
 
肩部に先が尖った工具で「王」状の刻書が成形段階で付けられている。
 
肩付近に対称に縦の耳が対称に付けられている。
 
平底の底面は板おこしである。色調は、肩、耳、付近に胡麻釉が降灰し、
 
全体に茶褐色である。器形が縦に半分に割れており報告書よれば、一度縦に破損したものを
 
黒褐色の接着剤で接合してあるといい、報告者は漆の可能性を指摘している。

報告書に「双耳壺が中世風であることなどからすると、之は城郭と同時代のものの様に思えてくる」とあり、
 
自分は紹介する小壺は、編年表から概ね15世紀末~16世紀代の越前焼と思う。
 
越前焼は元々常滑焼の技術を導入し平安時代末期に焼きしめ陶を作ったのが始まりという。
 
報告書の著者が指摘しているように「常滑系」の表現は概ね正しいか。
 
瓷器系の越前焼は日本六古窯の瀬戸・丹波・備前・常滑・信楽の一つで甕や壺、鉢の生産が行われていた。
 
室町時代以降「お歯黒壺」といって既婚婦人が歯に用いる鉄漿の容器が盛んに作られたようだ。
 
内容物が何かあるか、今回内部に新聞紙が沢山詰められていて内部確認までしなかった。
 
自分は、県北部の狭い範囲を主体に史跡巡りをしているので県北部のごく一部の事柄しかわからないが、
 
形がわかる越前焼の双耳壺(の県北部での出土例は、本例のみではないだろうか。
 
平安時代初期に全盛期を迎えた須恵器生産は、平安時代中期以降衰退したが、
 
その技術を踏襲した石川県の珠洲焼が中世において各地に海路を通じて流通した。
 
その後、珠洲焼は15世紀後半から越前焼にとってかわり流通するようになった。
 
越前焼の製品は、壺、甕、擂鉢の器種構成で、わずかに瓶類、陶錘、漁具、経筒などがある。
 
壺類は大きいものは高さ60cmのものがある。今回紹介する壺は高さ20cm前後のもので小壺である。
 
肩に箆記号が認められるが、その種類は多種多様で40種類以上ありその半分はよく見かけるものである。
 
同じ窯印が違う手で書かれていて、複数の職人が同じ窯印を使っている事を意味し職人集団の「印」と推定され
 
ている。(小野)

この窯印と似たものに「御神領分平等村田畠居屋敷御指図出之事」(天正5年(1577)剣神社文書)に
 
署名した24人の平等村有力百姓の略印と似ているものがあり
 
彼らが越前焼を指導しその下で数人の職人が生産に従事していたと考えられている。
 
紹介した壺と類似する箆記号が福井県福井市城戸ノ内町一乗谷で出土しているものに
 
紹介した双耳壺にあるような箆記号も見受けられる。
 
越前焼の製作技法は「ねじたて技法」と「ねじたてロクロ技法」がある。
「ねじたて技法」は粘土板を「ふね」と呼ぶ作業台に乗せて円盤状に延ばし底部を作る。
 
粘土紐を陶工が左方向に回りながら積み上げて器形を成形していく。
 
粘土紐の境目を「はがたな」と呼ぶ工具で伸ばしながら成形する。
 
越前焼の製品は、中世では擂鉢・鉢類を除く大甕から小壺までがこの技法によって作られている。
 
今回紹介する双耳壺も、よく観察すると粘土紐が積み重ねられて製作した事がわかる。
 
「ロクロねじたて技法は、蹴りロクロ台の上に粘土盤を薄く延ばし円盤状にして底部を作り、
 
粘土紐を2段積み重ね、この工程が終了するとロクロを次第に早く回し高さや形を整える。
 
擂鉢や蛸壺を作る時にこのやり方で行われる。瓷器系陶器と須恵器系陶器では
 
焼成段階から冷却に入る時点で、違いがあり須恵器系では火を止める寸前に焚口と排煙口を塞いで
 
燻しながら冷却する。
 
瓷器系陶器では、火を止めた後、焚口を塞ぐが排煙口は塞がない。焚口のおきが多量に残っているが
 
隙間から燻される事なく空気が流れて褐色の肌と緑の自然釉がかかり綺麗な仕上がりになると言われている。
 
引用参考文献
1969「上関城跡緊急発掘調査報告書」関川村教育委員会
1995「越前の名陶」福井県陶芸館
1990「一乗谷と越前焼」福井県立朝倉氏遺跡資料館
 

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遺跡近景
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遺跡の航空写真(報告書より)
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赤彩土師器高杯
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本遺跡は、新発田市飯島字地蔵潟に所在している。
 
標高3m前後の旧加治川扇状地の扇端部にある細長い微高地に立地している。
 
現況は水田である。平成21年にほ場整備事業に伴い、事前に新発田市教育委員会が主体となって
 
調査が行われた。調査の結果、奈良?平安時代の集落跡と判明。
 
検出された遺構は、掘立柱建物11棟、柵列2列、井戸1基、土抗17基、ピット90基、溝41条、杭列3列、
 
護岸施設1列、流路1筋がある。
 
遺物は土師器、須恵器、漆器椀、木製盤、曲げ物側板、底板、箸状木製品、田下駄、
 
斎串、刀形木製品など出土した。
 
遺跡の年代は8世紀後半から9世紀中葉である。
 
遺跡は、掘立柱建物群を中心とした遺構の変遷と出土遺物からⅠ~Ⅳ期の変遷を辿る。
 
Ⅰ期は建物が形成される以前で8世紀後半。土地利用の状況は不明。
 
Ⅱ期8世紀末?9世紀初頭。建物が建てられ、その周囲を溝で区画する。
 
人々が農業生産を生業としたと推測される。
 
Ⅲ期は9世紀前半で流路が形成され、流路沿いに建物が形成される時期。
 
護岸工事、道路の敷設、井戸が設置された。
 
流路沿いに倉庫が建てられ内水面の流路を利用して物資の掌握が行われていた時期。
 
Ⅳ期は9世紀中頃で、建物が散漫になり集落の衰退を感じさせる時期。
 
集落の散村化、集団の自立化など集落の変化を反映したものと推測されている。
 
官衙関連遺跡と直接結びつける事は難しく、
 
それ以外の遺跡で内水面を利用して物資の流通を掌握していたと考えられる集落遺跡の検出例は
 
県北部では初検出という。
 
このような集落遺跡の評価は今後の研究課題と問題提起されている。

また、報告書では、本遺跡から出土した遺物と在地窯出土資料の比較や編年の再検討を行い
 
8世紀中葉以降の笹神丘陵窯跡群の変遷が再構成されていて、大きく4期に分け指標としている。
 
今後の古代土器研究にあらたな布石となる可能性が高く注目される。
 
引用参考文献
2012『地蔵潟A遺跡 発掘調査報告書』新発田市教育委員会

 
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まだ、地中にも梵字が刻まれているようです。
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側面の年号
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側面の日付け
常浪川右岸に太田集落があり、以前に「道きり」の習俗を紹介した。
 
その、太田集落の南側に集落の境目にあたる道路沿いの畑に庚申信仰に関係する数基の石造物があり、
 
その中に真言板碑と思える大型の石造物があった。
 
以前から気になっていたが車を止めてじっくり観察する機会がなく、その前を通過した時思い出して見ることにした。
何やら梵字だけの板碑で解読してみると向かって右側側面に文化6年の年号(1809年)、
 
左側縁に3月27日の日付けが確認できた。
 
一番上部に愛染明王(ウーン)、その下に三行書で左側はバ、バ、カ、カ・・、中央にはオン、ヤー、ソワ、カ、・・・、
 
右側は、ダ、キシャ、同じ言葉を繰り返す畳句(じょうく・・チャ)、カ・・・か?
 
真言を表しているようである。色々、参考になりそうな本や、人に訊いてみたが読む順序や意味が不明であった。
 
このブログを見ている方で、意味や読みなど知っている方があったら御教授願います。

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