2012年01月

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過日紹介した境塚遺跡(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/52684899.html)の

北端に隣接する遺跡で、安野川の左岸、右岸に約5000m2の範囲の遺跡である。

遺跡の一部がJR東日本の線路が通る。調査区はJRの敷地内に防雪林が植栽されていた場所で、

事前に防雪林の根を抜く作業が行われていたため、遺跡の上面が破壊されていた可能性がある。

平成19年度の試掘調査で発見された。

第1次調査では、堀建柱建物1棟、溝、ピット、土抗等が検出している。

遺物は中世のものが中心で珠洲焼がメインである。

調査の結果、遺構ではピット、土抗(大型柱穴を含む)、溝が検出された。

溝は大型溝は幅約3m、深さ1.5mで、ほぼ東西に30m伸び両端が90°に曲がる事から

方形区画の可能性があり、調査区の大部分を占めている。

溝の中央部付近に大型柱穴と考えられる遺構が3カ所確認されている。

ピット、土抗から出土遺物は殆ど無く、大半が溝3から出土した珠洲焼、青磁などの

中世陶磁器である。また抜根撹乱土から、縄文土器の甕が潰れた状態で出土した。

縄文土器については、調査区の一部で見つかっただけで他に出土していない。


遺物
縄文土器甕・・・甕1個体が口縁上部を北東方向に向けて潰れた状態で出土した。

縄文時代終末期に所属する。

縄文時代に所属する遺物は他に出土していない。

甕は底部から直線的に立ち上がり肩部に最大径を持つ。

口縁部はやや外反する。平口縁で山形と刻目が入る小突起が交互に配置される。

青田鹸釮猟参2b式(新)段階のものと報告されている。


中世の遺物
珠洲焼甕・壺・片口鉢、瓷器系甕・壺、瓦質甕、土師器小皿・皿、青磁碗が出土した。

石製品として在地産の流紋岩、凝灰岩素材の砥石が出土した。

遠隔地産の砥石は出土していない。

珠洲焼は機銑挟釮琉篳が多く、掘銑垢琉篳も見られる。

瓷器系の陶器は、権兵衛沢窯跡段階と狼沢窯跡段階のものが出土した。

中には、石川県湯上ユノカミダニ窯跡出土の瓷器系甕肩部に類似する「矢羽状幾何学文」に類似する

押印があるものも出土し、狼沢段階に相当するものもみられる。


報告書では、境塚遺跡と山口野中遺跡の出土遺物について編年案が提示され、

概ね12世紀末~15世紀中頃の遺跡と思われるている。

(写真遺物は阿賀野市保管所有)

引用参考文献
2011「県営湛水防除事業関連遺跡発掘調査報告書掘廖惷塚遺跡・山口野中遺跡・三辺稲荷遺

跡』新潟県阿賀野市教育委員会

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日本海に面した砂丘上に集落があり、

地名事典によれば中世の文献に弘長4年(1264)3月11日の高井道円譲状に

「むらまつ」の地名があるという。

村松浜には小鷹宮神社が(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/33436327.html)あり

奥山庄南条と中条の境界の小鷹宮神社境内のぼう示石が「湯殿山」が

後世転用されたと伝える石がある。

村松浜集落に文献で、庚申塔に白い腹帯を巻いた珍しい習俗があるのを知り、

車で出かけて見に行った。

その場所は、墓地脇にあり背後に小高い山があって2基の庚申塔(文字塔)が並んでいて

晒布を巻いている。

道路を挟んで家が数件あったが全部のお宅が留守で詳しいお話を聞く事ができなかったが、

文献によれば「この地区の女の人で、妊娠3ヶ月位になると安産祈願の為、

庚申の日に家の人(たいていは亭主)と一緒にお参りする。

その時、白い晒布を巻くという。別の人の話では、安産祈願に限らず、願い事があると誰でも、

白い布を巻くと願い事が叶うと伝えられているという。

沢山の白い布が巻かれていて、庚申塔の文字が見えない位で、

今も信仰が厚く地元に伝承されていると思いました。

集落内には他に庚申塔があり、やはり白い布が巻かれているらしいが未確認。


引用参考文献
吉田郁生著1986「腹帯を巻いた庚申塔」『越佐の性神・風神その他』吉田ふじ

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遺跡の現況
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調査風景
 
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廣田氏図面を改変し報告書に転載
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旧阿賀野川河道右岸の旧百津潟右岸の北東~北方向にある自然堤防上及び緩やかな微高地上に立地する。
 
また、後世に開削された安野川左岸、右岸に立地する。
 
それぞれ各遺跡の標高は、境塚遺跡は7.5m、三辺稲荷遺跡8m、山口野中遺跡7.8mで遺跡間は近接し、
 
恐らくこれらの遺跡群は同一遺跡の可能性もあるかもしれない。
 
周知の三辺稲荷遺跡以外は、最近の試掘調査、確認調査で確認されたものである。
 
境塚遺跡編
阿賀野市百津字16-1に所在する。旧阿賀野川の旧河道が形成した自然堤防上に立地する。
 
平成20年5月の市教委が実施した試掘調査によって発見された。
 
その後、新潟県埋蔵文化財調査事業団が確認調査を行い38500m2の遺跡範囲が確認された。
 
遺跡の年代は13後半~14世紀初頭を主体とし、縄文、古代の大規模複合遺跡である。
 
一部で古墳時代前期~中期、古代の遺構・遺物が検出されている。
 
遺構は区画溝・掘立柱建物・大型井戸・埋甕・方形竪穴状土抗等が検出されている。
 
調査区範囲内の南側(B区南側)に小河川跡と思われる落ち込みが存在している。
 
その北側に建物群が存在すると想定された。調査区北西側一帯(B区北側)には、
 
方形区画溝が数基ある。同様にA区中央部においても方形区画溝があり、
 
その周辺には建物群の他大型井戸が存在する。

出土遺物は珠洲焼・常滑焼・瀬戸美濃焼・青磁・白磁・砥石・硯・五輪塔等である。
 
他に土器・陶磁器類、木製品がある。調査区の一部で古墳時代前期~中期の遺構や遺物が発見されたが、
 
地震活動の液状化現象と噴砂によって古墳、古代の生活痕跡はほぼ消滅している。
 
検出遺構(方形周溝・建物群・井戸など)の広がりは市内の同時期の遺跡では類をみないほど大規模で
 
隣接する埋蔵文化財調査事業団が実施した調査区においても県内最大規模の大型井戸が数基検出された。
 
遺構の切りあい関係から3時期の重複した遺跡が存在し、
 
鎌倉時代中期・後期~室町時代初期の長期にわたり旧阿賀野川右岸に営まれた大規模集落と
 
推定されている。
 
当該期は、鎌倉御家人大見氏が白河庄地頭として統治した場所で、
 
本遺跡周辺は白河庄の南端部分に位置し水原条・安田条と呼称されていた場所に相当する。
 
旧阿賀野川と近い事から河川が当時の生活と何らか関わりを持っていたとも考えられる。
 
※山口野中遺跡は項を改め紹介する。
 
引用参考文献
2011「県営湛水防除事業関連遺跡発掘調査報告書Ⅲ」『境塚遺跡・山口野中遺跡・三辺稲荷遺跡』新潟県阿賀野市教育委員会
境塚遺跡現地説明会資料(http://www.maibun.net/image/H21.sakaizukagensetusiryou.pdf#search='境塚遺跡')

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