勝泉寺境内
板碑全景(便宜上左から1.2.3呼ぶ)実物には黄色の番号はついてません
板碑1全体
板碑1の延慶2年の紀年銘
板碑1の「「諸悪莫大作 諸善奉行」の銘
板碑2
板碑3全体(正安4年銘板碑)
山門入口の水輪(伝・薬師堂裏山出土)
出湯系阿弥陀仏
追伸 カエル道でカエルに遭いました
安出の西に位置し新屋集落内に館ノ内、土井ノ腰など城館跡に関連するような地名や、
塚ノ腰などの墳墓に関係するような地名がある。
塚ノ腰からは未確認ながらも中世の墳丘墓と思われる場所があり、
ここから鎌倉時代の延慶2年(1309)と正安4年銘の供養塔が発見され
集落内の真言宗智山派医王山勝泉寺に保管されている。勝泉寺は文永2年(1265)宥範の開基と伝える。
旧山号は和泉山で本尊は胎蔵界大日如来である。
当山で確認させていただいた供養塔は3基でいずれも塚ノ腰から発見されたものと思われるもので、
越佐資料2巻(P.157)、新潟県史、村松郷土史6号(1980 中野、大沼)で銘文や拓本が紹介されている。
年号が確認できる供養塔という事から、編年の際の標準資料として価値が高いと思う。
3基は同じ小堂宇の中に安置されていた。
向かって左から便宜上1.2.3と番号を付けると、
1番は凝灰岩か頁岩系の薄緑色の板状の礫に五輪線刻塔婆が表現され銘文は「延慶2年酉巳三月二十八日」
「諸悪莫大作 諸善奉行」とある。
1975年に発見されたものという。
2は花崗岩系の川原石に線刻五輪塔婆が表現され梵字が彫られている。
3は、線刻五輪塔婆に梵字が表現されていて「正安第二二天(4年)八月」(1302)と真言か種字、
「為西仏」の銘がある。これは、越佐資料2巻でも紹介されている。
越佐史料では「□面仏」とされているが「為西仏」とする意見があり「為西仏」が正しいと報告されている。(中野 大沼1980)
以上石造物が発見された場所については、後日機会をみて踏査し報告したい。
他に山門付近の地蔵堂の中にも出湯系阿弥陀如来座像、前面に大型五輪塔の水輪があり、
形態は肩の張る壺形を呈するもので比較的古相で鎌倉時代中期~室町時代初期のものだろうか?
引用参考文献
中野豈仁 大沼淳(1980)「村松町新屋の池田・塚の越の供養塔婆」『村松郷土誌』第6号村
中野豈仁 大沼淳(1980)「村松町新屋の池田・塚の越の供養塔婆」『村松郷土誌』第6号村
松町史編さん委員会
高橋義彦「越佐史料」2巻 P.157
高橋義彦「越佐史料」2巻 P.157