城山(中央の丸い山)と麓の下戸倉集落
館跡付近
能代川と城ノ入川に挟まれた山間地に下戸倉集落があり、
集落の東側には城山(242m)があり未踏査であるが中世の山城遺構が残る。
集落の東側に「館ノ屋敷」と呼ぶ場所があり戸倉与八郎の居館跡と伝える。
「高野山清浄心院越後過去名簿」を参考にすると
「菅名荘 天文14年(1545)2月3日、同年12月21日 戸倉新衛門立之」があり、
戸倉姓をなのる人物が供養依頼を行っている。
戸倉姓の有力者の存在を窺わせるものだが、
今のところ直接本居館の館主と結びつける根拠もない。
Tさんのお宅が居館の一角で、江戸時代末期から伝わる絵図(Tさん所蔵の絵図・・・村松町史)によれば
方60m四方の土塁にその周囲に幅6mの堀で囲まれ、南と東に門があった事が窺えるという。
現況は宅地とほ場整備された水田で旧規を偲ぶ事はできない。
居館の東南約400mには城山(242m)があり、
空堀や曲輪が確認できるという(未確認)。
当時の遺物などで年代観がわかるかと思い付近の水田を歩いてみたがそれらしい遺物は見つからなかった。
町史には、「城館の立地や様相から南北朝時代にはすでに戸倉谷を経営していた小領主が在館し、
近隣の豪族河内氏とも深いつながりがあったと思われる。
その没落後長尾氏の被官達が交替在地したのであろう」と評価している。
引用参考文献
村松町長(1983)「村松町史」上巻
伊藤正一(1979)「村松町における中世城跡」『村松郷土史』第5号 村松町史編纂委員会
村松町長(1983)「村松町史」上巻
伊藤正一(1979)「村松町における中世城跡」『村松郷土史』第5号 村松町史編纂委員会
水沢幸一(2010)「黒川氏城館遺跡群Ⅳ」胎内市教育委員会