2011年06月

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城山(中央の丸い山)と麓の下戸倉集落
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館跡付近
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能代川と城ノ入川に挟まれた山間地に下戸倉集落があり、
 
集落の東側には城山(242m)があり未踏査であるが中世の山城遺構が残る。
 
集落の東側に「館ノ屋敷」と呼ぶ場所があり戸倉与八郎の居館跡と伝える。
 
「高野山清浄心院越後過去名簿」を参考にすると
 
「菅名荘 天文14年(1545)2月3日、同年12月21日 戸倉新衛門立之」があり、
 
戸倉姓をなのる人物が供養依頼を行っている。
 
戸倉姓の有力者の存在を窺わせるものだが、
 
今のところ直接本居館の館主と結びつける根拠もない。
 
Tさんのお宅が居館の一角で、江戸時代末期から伝わる絵図(Tさん所蔵の絵図・・・村松町史)によれば
 
方60m四方の土塁にその周囲に幅6mの堀で囲まれ、南と東に門があった事が窺えるという。
 
現況は宅地とほ場整備された水田で旧規を偲ぶ事はできない。
 
居館の東南約400mには城山(242m)があり、
 
空堀や曲輪が確認できるという(未確認)。
 
当時の遺物などで年代観がわかるかと思い付近の水田を歩いてみたがそれらしい遺物は見つからなかった。
 
町史には、「城館の立地や様相から南北朝時代にはすでに戸倉谷を経営していた小領主が在館し、
 
近隣の豪族河内氏とも深いつながりがあったと思われる。
 
その没落後長尾氏の被官達が交替在地したのであろう」と評価している。
 
 
引用参考文献
村松町長(1983)「村松町史」上巻
伊藤正一(1979)「村松町における中世城跡」『村松郷土史』第5号 村松町史編纂委員会
水沢幸一(2010)「黒川氏城館遺跡群Ⅳ」胎内市教育委員会

 
 
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広大な新発田の水田、稲も大きくなりました
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6月中頃、JR西新発田駅から西宮内に向かう県道を車に乗っていたら、
 
西新発田自動車学校前の県道沿いの水田にちょっと気になるものが建てられていました。
 
竹に細長い和紙を結びつけてなにやらまじないのような呪文が書かれている。
 
「罪祓以昆虫乃災消除祈所」と墨で書かれていた。
 
周辺に、このおまじないについて知っている人がいるか探してみたが
 
残念ながら出会う事がありませんでした。
 
恐らく「虫送り」の為に建てられたものでしょう。

虫送り(むしおくり)は、日本の伝統行事の一つで今は見かけなくなったが、
 
農作物に害虫がつかないように祈祷によって駆逐し、
 
豊作を祈願したものである。農薬が盛んに用いられるようになると行われなくなった。
 
 
 
同様の神事が行われいた例があり、恐らく本例も虫送りの目的で準備されたものでしょう。

 
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福連寺城遠望
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登山道入り口の送電線作業道の看板
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稜線の鉄塔
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山頂の看板
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山頂
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山頂直下の削平地
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五泉市の東方に聳える菅名岳、大蔵岳の山塊の南部に福連寺山がある。
 
川内山塊を水源とする早出川と杉川が暮坪付近で合流し、
 
山間地から平野部に開口する付近に位置し標高180mである。
 
不動堂山から延びる尾根の末端に福連寺山(180m)がある。

通称・城山(じょうやま)と呼ばれ馬の背状の尾根上に曲輪のような地形ががみられる。
 
会津口から越後への侵入口にあたり、
 
早出川を挟んで対岸の雷山城
 
とともに重要な拠点であったとおもわれるている。
 
本当にそうだったのだろうか?
 
今回の踏査は、土淵集落の送電線鉄塔作業道を使い踏査した。
 
稜線上には鉄塔があり、不動堂山方面からの登山道を歩いて福連寺山に到達。
 
藪で眺望は良くない。
 
山頂付近に曲輪らしい平坦地が確認できた。
 
短時間の踏査で、図示されている遺構について全て状況確認に至らなかった。
 
そこで「村松町史」掲載の縄張り図を参考にすると、
 
村松町史では「川内と川東を結ぶ早出川渡河地点を見下ろす軍事上の要塞としての性格が強い」と
 
評価している。
 
個人的には積極的に当地を敵の攻撃から防御したり、攻撃的な施設は図面からは読み取れない。
 
あるいは未確認の空堀や土塁が今後みつかる可能性もあるかもしれないが、
 
従来から言われているような城郭としての信憑性はどうかなと疑念を持った。
 
考えられる事をあげてみれば、現状確認できる状況は、
 
遺構が機能を失い放棄された状況を見ているのであり、
 
以前山城であったが城破りによって主要な空堀や枡形、虎口など埋めたり破壊された結果、
 
主要な施設が確認できないのか。あるいはそれらを普請する必要が無かったのか。
 
福連寺山、不動堂山など山岳密教と関係ありそうな地名があり、当地が福連寺山と呼ばれている事から
 
寺院などの宗教施設の可能性は?
 
まだ、調査不十分で明確にできないが従来から言われている城郭の可能性、
 
あるいはそれ以外の施設の可能性も含めさらに調査したいと考えた。
 
福連寺城についての伝承で雷城との合戦で白米流しの伝承がある。
 
引用参考文献
昭和58年 村松町長「村松町史」上巻

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洞穴入口
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内部
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大沢遺跡の土器
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大沢遺跡の土器(「県史」より)
 
東山丘陵の一角にある洞穴で、
 
田上町と旧村松町(現五泉市)の境界付近に所在する。
 
村松から信越線羽生田駅に明治年間に兵員輸送の為に切り開かれた道路がある。
 
洞内全長約114m、入口から40m付近で二洞に分かれ
 
一方が33mで悲母観音・金明水・大黒天・他方は40mで銀明水・稲荷を祀る。
 
伝承によれば平安時代の承保年間(1074~1076)に大沢喜久馬という人物が
 
コウモリが出入りしている事より洞穴の存在をしり、居住したという。
 
昭和57年には希種のニホンテングコウモリが確認されている。
 
大正2年地元の石工・Sさんが洞穴を発見。
 
その際、洞穴より縄文時代の土器片を発見した。
 
地質的には、新生代三紀鮮新世に海底に砂が堆積し、その中に包含されていた貝などの石灰質が隆起し、
 
地下水との相乗効果により洞穴が形成された。
 
現況は内部が暗く、ヘルメットや懐中電灯などの照明器具が無いと先に進めない。
 
大沢洞穴の事をPCで検索していた折、内部から縄文前期の土器片が定量見つかっている情報を得たが
 
未確認である。
 
洞穴とは別に、周辺の遺跡に近くの山林に大沢遺跡がある。小範囲の場所から縄文時代(中期)遺跡が確認されている。
 

大沢遺跡の縄文土器
縄文中期初頭から縄文中期中葉の土器が文献で紹介されている。
 
格子目文、斜格子目文、綾杉文や爪形文等が見られ、馬高期のものも確認できる。
 
大沢遺跡のものか断定はできないが、完形土器深鉢が写真によって県史で紹介されている。
 
引用参考文献
「新潟県史」資料編1 原始 古代 中世
村松町長(1983)「村松町史」村松町教育委員会 上巻
1979「角川日本地名大辞典」15新潟県 角川書店
1972「嵐北」文化財総合調査報告書 新潟県文化財調査年報第12

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