2011年02月

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拝殿
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神社参道入り口
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拝殿の入口上に掲げてある額
 
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彫りの深い立派な彫刻
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説明板
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旧新津市の朝日字馬場に所在する。
 
祭神は、建御名方命、誉田別尊である。元来諏訪神社であったが、
 
明治22年(1889)に朝日地区若宮の旦飯野神社を合祀し旦飯野神社とした。
 
拝殿には旦飯野神社と諏訪神社の併記した額が掲げてある。
 
明治40年朝日の稲荷神社、石動神社、十二神社を合祀した。
 
社殿は、文化8年(1811)に焼失。明治12年再建。明治30年(1897)改築。
 
境内に、神明神社、天満宮がある。
 
「越後国式内神社考證」には朝日の旦飯野神社を平安時代の「延喜式」の式内社としている。
 
論社として、阿賀野市の旦飯野神社(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/29310587.html)もある。
 
新津市史を参考にすると、朝日の神社周辺には、
 
八幡山古墳や古代の遺跡ありその分布から古くから有力者が存在し、
 
神社を奉祭する勢力が存在した可能性が考えられる事から本神社を式内社として有力視している。
 
古代において「和名抄」(930年代完成)に記載の「蒲原郡日置郷」に朝日は含まれる。
 
参考
現地説明板
当社は延喜式式内社で越後56座の一つである。
 
中世には若宮八幡大菩薩とも称され古来有名な大社で地方信仰の中心となし
 
境内地2400坪は往古より守護不入の地として領主地頭も検地することができなかった。
 
境内には桜の樹多く中には高さ数十丈もあり
 
夕陽にはその影が東方4キロ米以上にも及んだと云われている
 
1本枝から臼が33個とれたという大樹もあったそうである
 
しかし数百年の間に戦乱火災等で衰頽し社殿も小さな祠となり
 
建替えの資力もなく明治22年11月5日朝日地内の諏訪神社と合併し
 
社名を旦飯野神社と改称した明治32年社殿改築 明治四十一年村内の稲荷神社 
 
石動神社 下諏訪神社 十二神社を合併した昭和5年村社に列せられる
 
 
 延喜式式内社とは延喜5年西暦905年後醍醐天皇の勅命により
 
全国より神威の高い神社を国司の上申中より選び神衹式神明帳に登録され国家より
 
祈念祭等に幣帛を奉呈される事が義務づけられた神社である
 
祭神
誉田別命 建御名方命 事代主命 倉稲魂命 石動彦命 大山袛命
所在地 新津市大字朝日535番地
例祭日 9月19日

引用参考文献
花ヶ前盛明(2002)「越佐の神社」新潟日報社
新津市(1993)「新津市史」通史編 上巻

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遺跡遠景
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古代の須恵器食前具
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縄文土器(報告書より)
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東部山岳地帯を水源とするの仙見川や滝谷川・能代川が形成した扇状地や氾濫原の平地に村松市街地がある。
 
中世には村松館や江戸時代には村松城()が設置された。
 
この城の東には国道290号線と旧下田方面や栃尾方面とを結ぶ街道が通過する。
 
村松城の北西が字城下(しろした)で、本遺跡が所在する。
 
標高約18mである。五泉市域には、古代において初期荘園の
 
西大寺領鶉橋荘(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/51285127.html)がおかれ、
 
橋田周辺には、式内社論社の
 
 
本遺跡周辺には笹野町A、B遺跡、中名沢遺跡、住吉田遺跡などが周知化された遺跡がある。
 
本遺跡は、宅地造成により破壊される事になり平成7年に事前調査が行われた。
 
調査地区は村松小学校の西側の水田地帯で、昭和29年頃耕地整理が行われ、
 
これ以前は「諏訪ノ木」と呼ばれていた。
 
高低差のある場所で、平坦にするため高い部分の削平、低場所の埋め立てが行われ遺跡は撹乱が
 
予想された。
 
調査の結果主体を占める平安時代の遺物は9世紀末から10世紀の頃と推測されている。
 
遺構
方形区画の28棟の掘立柱建物が検出された。
 
掘立柱の柱穴から推定された建物以外にも建物跡が存在する可能性がある。
 
方形区画の規模は、大型(主軸10m前後)、中型(主軸2~3m前後)、
 
小型(主軸2~3m前後)のものに分類できる。
 
一部小型のものに炉を囲んだ建物跡も見られる。それぞれの建物跡の性格は不明ながらも、
 
住宅や倉庫、作業場などが考えられる。
 
遺跡区域北東部は空間部があり、
 
後世の埋めたてや、元々畑などの耕作地に利用されていた可能性があるという。
 
井戸は検出されていない。以上の点から掘立柱建物を中心とした農民集落と推定されている。
 
調査区の北東と南東及び北西の3カ所に杭列が検出された。いずれも近世のものと考えられていて、
 
旧河道に沿っているもの、ジグザグに杭列を設け、横板の堰をはめるもの、
 
杭列を2列に並べるものが検出された。調査区は河川の氾濫原だったようで、
 
全域にわたり砂利が分布し、河川流路が複雑に検出された。
 
正保年間の絵図に遺跡を貫流する河川が記載されているといい、
 
この河川跡とも推測されている。
 
遺物
1点だけ縄文土器が出土した。晩期の甕形土器口縁で口縁部は王冠形を呈する。
 
黒く煤け炭化物が付着している。肩部にかけ、太めの刻線が施文されている。
 
近隣では同市矢津遺跡に類例がある。
 
須恵器は、甕、杯、壺が出土した。須恵器の完形品は無く摩耗して白いものが多い。
 
杯は有台のものと無台のものがあり、杯蓋の鈕を持つものは11点と少なく、
 
鈕の中央部が窪むものがある。
 
壺は、一部に胴部に細い2本の平行条線を入れたものがある。
 
双耳(あるいは3耳か)、頸部外面に波状文を入れたものがみられる。
 
耳付壺は胎土も粗く、摩耗が酷い。甕片は遺物の構成で一番多く大部分が胴部片である。
 
口縁部3点、頸部4点あるのみである。体部外面は平行叩き目、内面が同心円文の当て具痕、
 
外部平行叩き目、内面も平行線当て具痕、外面格子目叩き目痕、
 
内面同心円文のものがある。
 
須恵器は、蓋については器高が低く天井部が水平で口縁に開くものが主体を占める。
 
鈕は、扁平だが中央が突き出しているものがある。
 
返り部分の断面が概ね三角形を呈し垂れ下がるものがある。
 
無鈕のもの(壺蓋)もみられる。
 
須恵器全体から佐渡小泊窯跡の下口沢窯跡のものとよく似ている。
 
土師器
完形品は1点も無く、全て破片で出土した。どれも磨滅がひどい。
 
内外面ともに黒く焼けたものが多い。器種として日用雑貨の杯、甕、碗、皿、壺、甕がある。
 
他に土錘が18点出土している。
 
平安時代以外の遺物も少量出土している。

先の縄文土器の他に、中世の遺物に青磁、染付、珠洲、越前、瀬戸美濃、唐津がある。
 
近世として唐津、瀬戸、越前、伊万里がある。
 
古銭は、北宋銭4枚、寛永通宝10枚がある。
 
キセル、煙管や鍛冶関連遺物の炉壁、鉄滓が出土している。
 
引用参考文献
1996「村松町城下遺跡発掘調査報告書」村松町教育委員会

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キンカサマ全景
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左側の石仏
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右側の石仏
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堂宇内の御符
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新津丘陵東部山麓に丸田集落がある。
 
過日紹介した丸田館(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/51499491.html)の
 
北東側の集落内の旧道に面して、木造の小堂宇があり、
 
2体の中世出湯系阿弥陀如来座像を陽刻した石仏がある。
 
向かって左側の石仏は肩幅のあるもので、右側のものは上部と下部を欠損し顔面、肩の一部を失っている。
 
ともに花崗岩製である。
 
この石仏は、地元で「キンカサマ」と呼び、
 
以前は盂蘭盆(死者の冥福を祈る行事、旧7月15日、現在は8月15日頃)には必ずお参りしたものだという。
 
以前は堂宇は無く最近、外にあった石仏を有志によっておさめられたという。
 
小堂宇の内部の側板には「塞神祭嚴御璽」符が貼られている。
 
御符の内容から推測すると「塞神」は「サエノカミ」「サイノカミ」そして「道祖神」と呼ぶ境界祭祀の神であり、
 
双体の石仏から男女の石仏に象徴される道祖神信仰と結びついたのだろうか。
 
石仏に、紀年銘や建立者の名前はみつからないが、
 
恐らく14世紀末~16世紀頃に地元の財力のある有力者によって、
 
死者の極楽浄土を願って建立されたものだろうか。
 
それが、後世になって「キンカサマ」として信仰されたものだろう。
 
有力者の候補として考えられるのは周辺を支配した丸田氏やその家族と、
 
それに関係する人物などの可能性が考えられる。
 
引用参考文献
五泉市「五泉市史」資料編1 原始 古代 中世
林英男(2006)「精選 日本民俗辞典」吉川弘文館

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新津自動車学校
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以前堀跡が確認できた自動車学校北側の道路(堀は確認できず)
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新津自動車学校の航空写真(Google Earthより)
 
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新津丘陵の北端付近に新津市街地がある。
 
能代川が形成した氾濫原に新津市街地が立地し山谷3丁目に本居館跡がある。
 
現在は新津自動車学校の敷地、住宅地となっている。
 
清和源氏の流れを引く平賀氏(金津氏)から庶士家として分かれ居館を構えたのが新津氏で鎌倉時代から
 
慶長3年の上杉会津移封まで新津に存続して活躍していた。
 
新津の初見は、「吾妻鏡」の建仁元年(1201)3月4日に見え「去月廿二日、城四郎長茂 伴類新津四郎己下、・・・」とある。
 
建武3年(1336)羽黒義成軍忠状に「金津保新津城」とあり、
 
この時期金津保に属していた。新津氏は金津氏を祖とし、
 
永正6年(1509)守護代長尾為景方に属した金津氏は関東管領上杉顕定軍と、
 
新潟平野の西部に聳える現・弥彦山近くの猿ヶ馬場での戦いで戦死し、
 
断絶したが新津氏は戦国時代を生き抜きぬいた。
 
文献(大家1998)によれば、遺構は昭和36年に建設された自動車学校によって破壊されているが、
 
自動車練習コ-スの方90m四方と推定できるという。
 
コ-ス造成前は畑地で周囲より一段高かったという。
 
北側と東西の一部に土塁状の高まりがあったという。
 
現況からは居館の存在を偲ぶことは難しい。
 
参考
「温古之栞」
新津の古城跡
中蒲原郡金津荘新津の古城跡は小丘に據る、
 
同荘護摩堂山城主平賀家の後代、源内左衛門尉盛資が長男平賀三郎信資より当城に移り
 
姓を新津と改む、後裔丹波守義門に至り上杉家に属し所々の合戦で軍功比類なきを以て、
 
重臣の列に加えられたり。
 
 
「越後野志」復刻版 下巻
金津荘新津山屋ニ城跡アリ、一説程島ニ在りトス、
 
城主新津丹波守義門(始ノ小字 彦次郎)ハ清和源氏平賀佐衛盛義ノ裔、
 
平賀三郎信資新津ニ来リ居住シテヨリ、累世久シキ名家也、義門ガ父ヲ金津小次郎資義ト云、
 
兄ヲ木津左衛門尉資直ト云、義門兼信公ニ仕戦功多シ、米沢上杉家ノ新津将監ハ其後裔也、
 
引用参考文献
大家健(1998)「図説 中世の越後」野島出版
新津市(1993)「新津市史」通史編 上巻
 

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諏訪神社拝殿
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拝殿南側
 
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諏訪神社の鳥居建設時の写真(大正5年頃)(神津2007)
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現在の鳥居
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鳥居脇の御来歴
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昭和初期の台輪の町内引き回し。手前が「わ組」、その後ろに「し組」の台輪が見える。
現在は6台の台輪が引き回され当時も今も大勢の見物客で賑わう
(神津2007)より
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新発田市市街地、JR新発田駅の駅前西側近くに鎮座する。
 
創建年代は大化4年(648)で越後(越国)創建された。
 
祭神は建御名方命、八坂刀賣命、溝口大祖神を祀る。
 
当時は阿賀野川以北の本州以北は蝦夷の領域に属する辺境の地で、
 
大和政権は蝦夷地における統治拡大政策の一環として本州南部地方の人を移住させ
 
公民とし郡を設置していた。
 
諏訪神社は当初、現在の聖籠町に信濃方面からの柵戸として移住して来た人が
 
信濃の諏訪大社から分霊してきたものを諏訪山(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/31880347.html)に勧請、
 
鎮座したのが起源とされている。
 
諏訪神社創建年代が事実か詳細不明であるが、
 
本当であれば平安時代の「延喜式」の式内社として記載があってもいいのだが、
 
もしかすると式外社として存続していたのかもしれない。
 
大和政権が蝦夷地進出の為に前年に渟足柵を設置し、
 
創建年の大化4年には磐舟柵(岩船か?)(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/30818631.html)を
 
設置している。日本書紀には「渟足柵(ぬたりのさく)を造り、
 
柵戸(さくこ)を置く」という記述からも当時の大和政権の越国への進出が窺える。
 
同年、行政の大変革が行われ越国は越前、越中、越後に分割され、
 
越後国は、沼垂郡と磐船郡に分けられた。

聖籠町の諏訪山付近の砂丘列には、古代の遺跡が多数分布していて
 
7世紀代の遺物がいくつか確認できる地点が散見できる。
 
諏訪山のある場所は越国が分割統治され沼垂郡、岩船郡に分けられ、
 
郡域には色々意見があるところであるが、概ね沼垂郡域に属すると思われる。
 
御来歴が正しいとすれば平安時代の式内社にないので式外社の一つかとも思われるが
 
詳細不明である。中世になって新発田氏の信仰も篤く、
 
諏訪山から新発田城に移設。江戸時代になり初代藩主、
 
溝口秀勝公により新発田城内に遷座。
 
その後1756年(宝暦6年)、七代藩主溝口直温が現在位置に遷座していたが
 
2001年の火災で本殿以下焼失している。市民の篤い願いが寄せられ再建の気運が高まり
 
2004年には社殿が再建された。
 
江戸時代には藩主から篤い信仰を寄せて盛大な祭礼が新発田城下を挙げて行われるようになって、
 
藩主溝口直温より諏訪神社の祭礼に「飾り屋台を出す云々」よう、
 
指示が出され盛大な祭りが行われるようになった享保11年(1726)頃には
 
盛大な舞台に車輪を付けて踊り子や子供達が踊り町をねり歩くようになった。
 
そのうちに勇壮な台輪が奉納されるようになり、全国的に知れ渡るようになった。
 
拝殿前には諏訪の諏訪大社の御柱が建てられている。
 
神社の南側にある鳥居はその昔木造であったが、
 
大正時代に大倉喜八郎により石造の鳥居が作られた。
 
江戸時代には人数溜まりと言われる場所にあった。
引用参考文献
神津良子(2007)「ふるさと新発田」株式会社 郷土出版社
現地説明板
諏訪神社HP(http://www.osuwasama.jp/

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