2010年12月

 
2005年8月、自宅にAさんが遊びに来て飯豊の稜線で土器のようなものを1点、
 
拾ったのでみてほしいという。
 
ポケットから出して見せてくれたものは、須恵器片であった。
 
新発田市在住のSさん、Aさんの2人は余暇を利用して飯豊連峰北部の頼母木山に登る為、
 
奥胎内の頼母木川と足ノ松沢に挟まれた足ノ松尾根を登った。
 
2人は昔から私の山友で、私も山へ一緒に遊びに行った事があり
 
気心知れた仲間である。その時は、都合で一緒に同行できなかったが、
 
2人が足ノ松尾根の登山道を登った。大石山山頂を経由し頼母木山まで行った時に
 
途中のやや広い場所で、這い松帯の地面が出ている場所で見つけたという。
 
正確な場所まではガスがかかっていたので覚えていないというが、
 
Sさんにも聞いたが同様の証言を得ている。
 
その場所付近の写真も見せてもらって同様の場所を後日探しに行ってみたが
 
恐らくここだと思うような似ている場所を探したがいくつか候補地があったが正確性に欠ける。
 
正確な地点がつかめていないものの大石山山頂からさほど離れていない場所と思われる。
 
須恵器片は有台坏の底部片で水挽成形によって体部が作られている。
 
高台の断面からは、水挽き成形された体部に低い断面方形の高台が付けられ、
 
内端接地となる。底部はヘラ切りによって粘土塊から切り離されている。
 
形態から8世紀末から9世紀初位の年代観と考えられる。
 
採集地点の証拠として付着した泥を完璧に水洗しないようにし、破断面の洗浄をして胎土の状況を観察した。
 
破断面には釉は確認されないようである。
 
2次焼成は受けていないと思われる。
 
胎土には長石や石英状の小粒な砂が混じっていて生産地の状況を反映しているのだろうか。
 
高温焼成されたらしく、細かい発泡が体部断面に見られる。
 
生産地は新潟県北部のこれまでに確認されている窯跡出土のものと違和感があり、
 
それ以外の場所で生産されたものだろうか。

Aさん、Sさんの証言が正しいとすれば、
 
この土器は、人が採集地点付近に何かの目的で搬入したものと思われる。
 
飯豊連峰南部の飯豊山を中心とした飯豊山信仰が古くから行われていた事は、以前から知られている。
 
伝、飯豊開山は飛鳥時代の白雉3年(652)役小角と知同和尚が開山。
 
後に行基(668〜749)空海(774〜835)等登山して護摩を修したとも伝える。
 
江戸時代には修験道が盛んに行われ、
 
稜線などの主要な地点に石造物や、古銭などが散見する。
 
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頼母木小屋
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飯豊稜線の須恵器
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破断面の写真
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今回紹介する土器の採集地点は飯豊連峰の北部であり、
 
飯豊信仰の中心部から外れているようである。
 
現在こそ立派な登山道が開かれているが、
 
仮に南部の飯豊信仰の登拝路があったとしても北部では、
 
それほど整備されてはいなかったのではないだろうか。
 
命がけで、稜線に辿りついた古代人の執念が感じられる。
 
正確な採集地点が把握できていないが採集地が飯豊連峰稜線という特異性、
 
縄文時代の石鏃が採集されている事は知られているが、
 
恐らく歴史時代の飯豊連峰の遺物としては現在までに確認されているものの中では
 
最古と思われ注目され、今後の踏査の進展に注目される。

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日本海に浮かぶ粟島の内浦集落南西側にある。
 
当山境内には数多くの南北朝時代の中世板碑(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/42449001.html)が
 
多数残存し、粟島が西方浄土の地、観音補陀落の地として霊場と考えられている。
 
粟島は中世においては小泉荘色部領であった。
 
年不詳の色部為長置文書写の「「古案記録草案」)には「こいつみしやうのうち、いろへ・うしや・あふしま」とあり
 
「あふしま」が粟島に相当すると思われる。
 
当山はの創建年代不詳。寺伝では、江戸時代の寛永5年(1628)に、
 
本保十朗左衛門が再興したという。
 
天正~慶長(1573~1615)頃の色部氏年中行事(色部文書)に「同御馬越ノ時、
 
観音寺・御かいこんあんよりの上物」とあり、観音寺が織豊期には存続していた可能性が高い。
 
境内にあるやす突観音堂(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/42406877.html)には
 
平安時代後期の康和年間(1099~1104)の仏崎から引き揚げられたと伝える観音像が祀られている。
 
曹洞宗は鎌倉時代に道元が中国(宋)から帰国(1226)後に、
 
国内で自らの教義を正として布教し、武家から一般民衆に信仰されるようになった。
 
越後では曹洞宗寺院「越後四ケ道場」があり室町幕府の統制力が無くなり応仁の乱以降、
 
盛んに曹洞宗が信仰されるようになった。
 
それまで、真言宗や天台宗が多かったが改宗する寺院も多くなるようになる。
 
当山も改宗されたのか、創建時から曹洞宗であったのか不明であるが、
 
村上市の耕雲寺では「仏法の頭領・熊野神社を当山の守護とす」言われ、
 
隣接して熊野神社が併設しているおり、筆者の考え過ぎや無関係の感が多分にあるが
 
熊野信仰との関わり、中世石造物の建立時期と時期差があるが、創建時の背景と何か関係があるように思える。

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遺跡現況
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耕作土の下層に黄色の地山が確認できた場所がありました
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本遺跡は、阿賀野川支流の早出川右岸にある大蔵山の西麓位置し、
 
旧石器時代の遺跡ではないが過日紹介した
 
 
東側の尾根上にある。
 
薬師平と地元で呼ばれている場所で、現況は畑地。緩傾斜地に立地している。
 
標高は約40m前後である。
 
偶然に歩いた場所に一部耕作土が耕作の為に、深く掘られた場所があり
 
地表面から目測で40cm位下層黄色の地山が見える場所が確認できた。
 
1964年頃から1981年までに県立新潟南高校のグル―プによって
 
採集された旧石器時代の遺物が色々な文献に多数紹介され著名な遺跡である。
 
しかし、遺跡の地点確認の為、周辺を踏査したが
 
フレ-クやツ-ルなどの遺物を見つける事はできなかった。
 
これまで採集された360点のうち、
 
232点が後期旧石器時代のナイフ形石器文化期のものと思われるものが殆どで、
 
1点だけ後期旧石器時代前半期にみられるものに類似する小形剥片素材の
 
台形様石器(類米ケ森形ナイフ形石器)があるが、
 
それに伴う石核とみられるような石核が採集されているが、点数が少ないために
 
他の石器類と共存するかどうか判断に問題が残る。
 
他に、1点の尖頭器と思われる石器についても旧石器時代終末期から縄文時代初期のものと思われ、
 
近くに縄文早期の土器が採集されているという情報が文献にある事から、そちらとの関連も疑われる。
 
石器は彫器34点、ナイフ形石器20点、掻器2点、彫器削片、石刃102点、石核3点で
 
殆どが神山型彫器、杉久保型ナイフ形石器が主体を占める。
 
ナイフ形石器は基部周辺に2次加工があるものや、二側縁加工のものがある。
 
彫器には小坂型や下総型石刃技法に類似するものもある。
 
石材は圧倒的に珪質化した頁岩が多く、玉髄、黒曜石が若干ある。
 
剥片剥離技術は石刃技法を主体とし、単設打面石核のものが圧倒的に多く、
 
表裏面の剥離軸が一致するものが多い。
 
 
引用参考文献
1983「新潟県史」資料編1 原始 古代1 新潟県
2006 加藤学「新潟県域における杉久保石器群と東山石器群」『東北日本の石刃石器群』東北
日本の旧石器文化を語る会

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国道290号線が村松市街地に入る付近、石曽根がある。
 
戦国時代には石曽根条と呼ばれ越後国菅名荘の長尾為景書状案(年不詳)(反町小田切文書)に
 
「菅名荘石曽根条」とある。享禄2円12月29日上杉氏蔵米納下日記(反町段戦日記)で555俵を納め
 
「いしそね」が当地と推定されている。(地名大辞典)

現地御来歴によれば・・・

祭神は豊受皇大神で伊勢神宮の豊受皇大神宮の祭神で、衣食住や全ての産業の守護神である。

宗像三神と呼ばれ、一杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たこころひめのみこと)、
 
端津姫命(はつひめのみこと)の三神が祀られている。越後国蒲原郡菅名荘石曽根鎮守であり、
 
大同元年(806)9月の創建という。
 
神明宮本殿にある御神体の台座裏に
 
 
「奉勧請神明 大同元年 丙戌 9月16日」「奉神明御神体 大同2年丁亥 3月16日」
 
と記載がみられるという。
 
御神体は破損、腐食が進んで天保9年(1838)2月田代石見兼信より9代藩主掘丹波守直央公に
 
御神体の再興を促して同年10月26日京都の仏師により再興された。
 
社殿は明暦2年(1656)に、2代藩主堀丹波守直吉公によって再建。
 
現社殿は、明治34年に(1901)に再興されたものである。
 
古代から現在に至るまで地元民に崇拝され中世には免田多かったという。
 
本神社は村松藩の三社の一つで後の五社の一つになり社領米10石、御初穂銀10匁を下付けされた。
 
五社は神明宮、住吉神社、山王権現(現日枝神社)、春日神社である。
 
本神社が古代(9世紀初め)から本当に存続していた可能性はあるのか?
 
五泉市史添付資料の遺跡地図をみる限り神社付近に9世紀頃の遺跡は見つかっていないようである。
 
住宅地の為にすでに破壊されてしまっているのか、未発見なのか不明であるが
 
未踏査の為詳細不明。現地説明板では創建が9世紀初め頃としているが、
 
村松町史には「寛延寺社帳」によれば、足利義詮(1358~67)の頃、
 
伊勢国司仁木左京太夫義長に仕えた山田内蔵助が主家没落後、
 
石曽根の地に至り皇大神宮を勧請したのが始まりという内容を指摘する文献がある。(村松町史)
 
 
引用参考文献
1983「村松町史」上巻 村松町長
2007「五泉市史」通史編 五泉市
1978「日本地名大辞典」新潟県15 角川書店

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