2005年8月、自宅にAさんが遊びに来て飯豊の稜線で土器のようなものを1点、
拾ったのでみてほしいという。
ポケットから出して見せてくれたものは、須恵器片であった。
新発田市在住のSさん、Aさんの2人は余暇を利用して飯豊連峰北部の頼母木山に登る為、
奥胎内の頼母木川と足ノ松沢に挟まれた足ノ松尾根を登った。
2人は昔から私の山友で、私も山へ一緒に遊びに行った事があり
気心知れた仲間である。その時は、都合で一緒に同行できなかったが、
2人が足ノ松尾根の登山道を登った。大石山山頂を経由し頼母木山まで行った時に
途中のやや広い場所で、這い松帯の地面が出ている場所で見つけたという。
正確な場所まではガスがかかっていたので覚えていないというが、
Sさんにも聞いたが同様の証言を得ている。
その場所付近の写真も見せてもらって同様の場所を後日探しに行ってみたが
恐らくここだと思うような似ている場所を探したがいくつか候補地があったが正確性に欠ける。
正確な地点がつかめていないものの大石山山頂からさほど離れていない場所と思われる。
須恵器片は有台坏の底部片で水挽成形によって体部が作られている。
高台の断面からは、水挽き成形された体部に低い断面方形の高台が付けられ、
内端接地となる。底部はヘラ切りによって粘土塊から切り離されている。
形態から8世紀末から9世紀初位の年代観と考えられる。
採集地点の証拠として付着した泥を完璧に水洗しないようにし、破断面の洗浄をして胎土の状況を観察した。
破断面には釉は確認されないようである。
2次焼成は受けていないと思われる。
胎土には長石や石英状の小粒な砂が混じっていて生産地の状況を反映しているのだろうか。
高温焼成されたらしく、細かい発泡が体部断面に見られる。
生産地は新潟県北部のこれまでに確認されている窯跡出土のものと違和感があり、
それ以外の場所で生産されたものだろうか。
Aさん、Sさんの証言が正しいとすれば、
この土器は、人が採集地点付近に何かの目的で搬入したものと思われる。
飯豊連峰南部の飯豊山を中心とした飯豊山信仰が古くから行われていた事は、以前から知られている。
伝、飯豊開山は飛鳥時代の白雉3年(652)役小角と知同和尚が開山。
後に行基(668〜749)空海(774〜835)等登山して護摩を修したとも伝える。
江戸時代には修験道が盛んに行われ、
稜線などの主要な地点に石造物や、古銭などが散見する。
頼母木小屋
飯豊稜線の須恵器
破断面の写真
今回紹介する土器の採集地点は飯豊連峰の北部であり、
飯豊信仰の中心部から外れているようである。
現在こそ立派な登山道が開かれているが、
仮に南部の飯豊信仰の登拝路があったとしても北部では、
それほど整備されてはいなかったのではないだろうか。
命がけで、稜線に辿りついた古代人の執念が感じられる。
正確な採集地点が把握できていないが採集地が飯豊連峰稜線という特異性、
縄文時代の石鏃が採集されている事は知られているが、
恐らく歴史時代の飯豊連峰の遺物としては現在までに確認されているものの中では
最古と思われ注目され、今後の踏査の進展に注目される。