2010年11月

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塚状の小山
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菅名岳北麓の佐取集落、阿賀野川左岸の集落の北側にある畑地に立地する。
 
塚は、一面藪に覆われ、直接地面を確認できなかったが、足元の感触から砂利で覆われているようだ。
 
塚状になっている部分は目視で高さ1~1.5m程、径3m位である。
 
果たして塚と言えるのか?
 
藪に覆われている為詳細不明であるが、周囲に溝らしいものは見当たらない。
 
山の上にはモニュメント的な石造物等は無いようである。
 
古い墓や塚で清浄な石を覆う事により悪いものから大事な場所を守るために
 
水系の砂利を覆う例が新潟県北部やその他の地域でもある。
 
その可能性や、畑地の邪魔な石を集めて耕作地の端に積み上げた可能性もありどちらとも判断しかねる。
 
覆われている石の一部が確認できたが水系の石に見られるような円礫や亜円礫というより
 
角礫に近い形状を呈していた。
 
礫の形状を見る限りでは耕作地の邪魔な石を集石した場所なのかとも考えた。
 
ただし、部分的な観察結果なので、それで全体の様相を特定するには危険である。
 
この小山に関係する伝承は分からないが、その場所の地名が「首戸」である事から根拠は無いが
 
もしや、無念の死を遂げた人の首が埋まっているのか?
 
背後に誰かいるような気がしたのでその場を早々にあとにした。
 
この山と関係ないが、水害時に備えてなのか、
 
周辺踏査で五泉市管理の水防用の砂山(塚状)があるのを見つけた。
 
それには、はっきりと水防用の砂である事を看板で明確にできるのでそれとわかるが、
 
塚状の小山は色々な状況で作られる場合や、自然でできる場合があり即、
 
小山=塚とは言い切れない場合があり特に藪に覆われて判断が難しいものなど注意が必要な事を痛感した。

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薄暗い杉林の中に塚があるらしいのだが・・・
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高さ1m位の舌状の段丘末端部(沢の流出物の末端にも見える)
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阿賀野川左岸に佐取集落があり古くから咲花温泉で知られ、
 
余暇を利用し温泉で、リフレッシュする人が多い。
 
佐取周辺は、明治元年の戊辰戦争において激戦地となり、咲花駅前には石碑がある。

塚として遺跡になっている場所は、佐取集落の東端、菅名岳山塊の沢の開口部にあたり現地を踏査した。
 
現況は杉林で、夕方に近かったので薄暗い林の中の踏査であったが、藪が薄く観察しやすい状況であった。
 
盛土と思うような場所は、発見できなかったが舌状に張り出した小面積の段丘があり
 
末端の高さ1m位、幅3m位の場所があったが、どうみても人工的な場所には見えなかった。
 
他に塚状の場所を探したが、沢はおおむね平坦地でそれらしい場所はわからなかった。
 
自分の勘違いで、別地点の場所を見ている可能性大だが・・・。 
 
遺物も発見できない状況で人にも会わなかったので詳細不明である。

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中央が中世板碑
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五大種字板碑
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五輪線刻板碑
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五輪線刻板碑拓本
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菅名岳や大蔵岳の山麓に郷屋集落があり村はずれの水田地帯に共同墓地がある。
 
そこに、2基の中世板碑がある。
 
現在、その板碑は2基が重なるように下部がセメントで固定されて建てられている。
 
前面に、五大種字の「キャ、カ、ラ、バ、ア」が安山岩と思われる自然の河原石に線刻されている。
 
紀年銘は無く建立された年代は不明であるが、線彫りの梵字には力強さにかける、
 
感覚的で根拠に乏しいが南北朝~室町時代のものだろうか(14世紀末~15世紀か)。
 
背後の板碑は川原石素材の花崗岩製でそのままでは良くわからないが、
 
空風火水地輪の輪郭を表現し五輪線刻塔婆に五大種字の「キャ、カ、ラ、バ、ア」が線刻されている。
 
地輪部分は良くわからないが省略されているようにも見える。
 
やはり、これも紀年銘を欠くが、地輪部がよくわからないものの、
 
村松市街地の正円寺境内の紀年銘板碑(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/46358400.html)で、

五輪塔各部位の輪郭を表現したものに文保元年(1317)のものに類似し、
 
鎌倉時代末(14世紀第一四半期位)のものだろうか。

中世には菅出や郷屋集落は中世において菅名荘の範囲に含まれ菅名氏が統治した。
 
菅名荘の荘域は、旧村松町、五泉市のほぼ全域で、
 
鎌倉時代から南北朝時代に菅名氏の名前は文献資料に現れていないという。
 
嘉吉3年(1443)の「旦那去渡状に「越後国菅名大隈引旦那(以下略)」があり、
 
中世から熊野信仰が盛んに行われていた可能性が高い(町史)。
 
また、それ以降の天文年間の16世紀前半の頃の記事として、
 
菅名荘在住の戸倉氏、アラ川氏などの名前が「高野山清浄心院「越後過去名簿」に見える。
 
本板碑が原位置を保っていたのか、それとも他からの搬入品なのかよくわからないが、
 
あまり遠方ではない場所にあったものだろう。
 
恐らく熊野信仰が盛んに行われた際の有る程度財力のある者による遺物にも思える。
 
引用参考文献
昭和58「村松町史」上巻 村松町町長
2008「高野山清浄心院「越後過去名簿」『新潟歴史博物館研究紀要』第9号

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古代律令制度が崩壊しかけた頃で、
 
天平15年(743)墾田永年私財法が発布され、
 
天平勝宝元年(749)には有力寺院や貴族に墾田の私有地化が許され、
 
荒地の開墾を行い全国に荘園を持つようになった。
 
これが初期荘園で、8世紀後半には越後蒲原郡に槻田荘(現三条付近)、
 
鶉橋荘(五泉市付近)に2つの荘園が成立した。
 
五泉市橋田の道路脇に記念碑がある。
 
現地説明板より
「橋田地区はこの地に小字で「ウツラハシ」の地名が残っている。
 
奈良の西大寺が越後に所領していた五つの荘園の一つの「鶉橋荘」と考えられる。
 
この事を示す史料としては
 
「西大寺資材流記帳」(宝亀11年)(780)に所領地として
 
「越後蒲原郡鶉橋荘 一布 一紙 並白」と記載されている。
 
 
また、明治16年の「新潟神社明細帳」には、
 
現在の中山神社(宇都良波志神社)(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/50804245.html
 
の所在地が「中蒲原郡橋田村鶉橋」となっている。
 
さらに橋田周辺には古代遺跡が存在し、
 
出土品により奈良・平安時代に営まれた集落の跡と考えられている。
 
 
これらの事から西大寺所領の「鶉橋荘」は橋田地区を中心に展開していたと言われている。
平成203月吉日 橋田史跡保存会」
 
 
説明板には、荘園が橋田付近に比定されているが、
 
早くに衰退したらしい。
 
その後中世に入り、五泉市の大部分は菅名荘の包含され「吾妻鏡」に
 
「文治2年(1186312日条に載る関東知行国乃貢未済庄々注文によれば、
 
六条院領で預所を務めた平惟繁が越後北部の諸荘園を開発した城氏と
 
関係が深く、同荘成立の背景に城氏は関与した可能性が強いと
 
推定されている。
 
地頭は馬場館に本拠を置く菅名氏が務めたと言われている。
 
 
橋田周辺の奈良~平安時代の遺跡に橋田A,B,C各遺跡がある。
 
そこからのものとみられる採集遺物が五泉市史に写真で紹介されているが、
 
数点だけの須恵器細片で断片的資料の為、
 
少数の遺物から遺跡の性格等を考察するには詳細不明であるが、
 
もし鶉橋荘の位置が仮に当該地周辺に存在したのなら
 
周辺に鶉橋荘の西大寺を後ろ盾とした有力者の統治下に、
 
置かれた人たちの集落が存在した可能性も捨てがたいようにも思う。
 
これらの遺跡については機会を見て紹介する。
 
引用参考文献
「五泉市史」資料編1 原始・古代・中世
1986「新潟県の地名」日本歴史大系15 平凡社

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神社本殿
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御来歴
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村松市街地の正円寺
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肥前系陶磁
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類似染付瓶
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神社は、村松市街地の南部にある独立峰の
 
山王山(地元の店の方に山王山はどこでしょうか?と聞いたり、
 
神社周辺の人に聞いたがあまり周知されていないようだった)にある。
 
標高は20m前後で小高い山の上に鎮座している。
 
現地の説明板によれば「祭神は大山咋命」(おおやまぐいのみこと)、大巳貴命(おおなむちのみこと)で、
 
由緒は延暦15年(桓武天皇御代西暦796年)僧、最澄が竜形山修学院創建にあたり、
 
その鎮護の為に近江国比叡山に鎮座した二柱の神を分霊勧請した。

以来、雨乞いの神として深く崇拝し奉るところとなり、特に正保2年(後光明天皇御代 西暦1645)
 
堀丹波守直吉公入封以来藩主の信仰も厚く年々社領米二石五斗を寄進し以後諸貴も奉納された。

本社殿は元臥竜山にあったが弘2年(1845)、当時掘丹波守直央が現地に新築奉遷した。
 
明治5年郷社に列せられた。祭礼、4月17~18日、9月17~18日」とある。

村松町史上巻によれば、山王山は明治初年まで歯骨堂山と呼ばれていて、
 
神主は霊封神と呼ぶ神社を境内に祀ったという。
 
現存しないが当時白山宮があり境内地に御歯骨堂と呼ぶ建物が置かれていた事が
 
明治5年の絵図に記載されているという。白山宮は、伝教大師が村松市街地にある正円寺(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/46358400.html)を開いた時に、
 
その守護神として勧請されたものと伝えられているという。
 
歯骨堂は財力が無く板碑など造立するだけの力の無い人が遺骨の一部や爪、
 
遺髪を竹や木製の筒に入れて歯骨堂に投入する場所の事で、
 
大きな霊場に設けられる事が多く中世から正円寺を中心とした大きな霊場の存在の可能性を示唆している。
 
今回踏査した際、境内の片隅に伊万里焼と思うものが、落ちていた。
 
写真に撮って家で調べてみたが類似の遺物が18世紀末から19世紀初頭とされている伊万里焼染付瓶が

多摩ニュウ-タウンNO.424遺跡で出土品として文献に紹介されているので、
 
同時期かそれ以降に当地にデポされたものだろう?
 
恐らく弘化2年に神社が当地に遷座して以降の遺品と思う。
 
堂宇に神器として供えられたものだろうか。
 
引用参考文献
1984「国内出土の肥前陶磁」九州陶磁文化館
1983「村松町史」上巻 村松町町長

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