2010年05月

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二宮家の長い板塀と門
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日本庭園
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中世多層塔
蓮野の二宮家は旧加治川村金塚の大地主であった白勢家の土地を管理する
 
差配として始まったとされる。
 
その後、土地所有拡大に行き詰まりを感じて有価証券の投資に切り替え、
 
新発田藩廃藩後も、戦後の農地改革後も財力を維持できたとされている。
 
5月のバラの咲く頃限定で、一般開放されている。
 
日本庭園の築山には花崗岩製の多層塔があり、
 
元来丹波五郎佐エ門長秀が豊臣秀吉より拝領し、
 
その後丹波公より新発田藩主溝口秀勝公に贈られたものと伝えられている。
 
新発田藩廃藩まで新発田の清水園にあったものを、
 
白勢太郎兵衛氏所有になり明治10年(1877)頃、
 
白勢氏衰退の際二宮家が買い受けたものだという
 
新発田市史には「溝口秀勝朝鮮より請来と伝える層塔」と紹介されている。
 
秀吉が朝鮮出兵の際の戦利品なのだろうか。
 
丹波五郎佐エ門長秀は、後の初代新発田藩主溝口秀勝公の主君である。
 
尾張国丹波郡出身で、天文3年(1534)に生まれた。
 
織田信長に仕え信長の戦勝を陰で支えていた。
 
その後、信長が本能寺で滅ぼされると、
 
豊臣方に仕え天下統一の陰に長秀がいた。
 
溝口秀勝公は天文17年尾張国に生まれ丹波長秀に仕え武功をたてた。
 
天正9年(1581)戦功により高浜城主となり、
 
天正11年には大聖寺城主となった。
 
関ヶ原の合戦では家康方に組し越後に乱入した上杉軍と
 
それに呼応した一揆(上杉遺民一揆)を平定した。
 
その後、慶長3年(1598)国主・上杉景勝が会津移封になると
 
新発田藩主として溝口秀勝が入封した。
 
引用参考文献
昭和55年「新発田市史」上巻 新発田市
「静勝園」新潟まち遺産の会パンフレット

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西神社
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庚申塔(建立年不詳)
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中世石仏群
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過日紹介した、
 
西浦観音山の中世板碑(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/50476056.html
 
がある神明神社の同じ丘陵上の西側に西神社がある。
 
西浦の全面に広がる水田地帯には江戸時代までは
 
広い塩津潟が広がっていた。
 
加治川村村誌によれば、特に地名の由来など詳細不明としながらも、
 
潟の縁辺に多くの集落があったのに対し、
 
沿岸西方周辺に存在したのでそうよばれたのではないかと推測されている。
 
西神社は創立年不詳。
 
大日要成、伊須流岐彦之神を祭神とし、
 
明治35年再建、明治4111月西山、神明神社、西浦、石動神社、神明神社を合祀。
 
石日神社を西神社と改称した。
 
境内には庚申塔の文字塔とともに3基の中世出湯系阿弥陀如来座像の
 
 
石仏があり、セメントで固定され安置されている。
 
数が3基あるので弥陀三尊の意味なのか、
 
それとも意味が無いのかよくわからない。
 
14世紀末~15世紀頃大量生産された産物で、
 
極楽浄土を願った比較的財力のある人が建立したものだろうか。
 
庚申塔は文字塔で近世末から最近のものと思われる。
 
背後の神明神社にある中世板碑、本神社境内の石仏は
 
元々この場所にあったのか不明。
 
これら神社周辺に小テラスがいくつか見受けられる。
 
山城の可能性も考えてみたが短時間の踏査であったが
 
空堀など発見できなかったのと、城館関連の遺構とみるより、
 
筆者の誤認の可能性大であるが、
 
本格的な調査をしてみないと分からないが、
 
周辺に石仏や板碑が散在している事から
 
これらの小テラスは中世の墓地なのだろうか。そんな事を考えてみた。
 
引用参考文献
1989「加治川村の文化財」第1集 加治川村教育委員会

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神明神社
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目立たない場所の中世板碑
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「加治川村の文化財」所収
櫛形山脈の西麓に西浦集落があり、
 
集落を眼下に見下ろせる小高い丘陵上の神明神社境内に、中世板碑がある。
 
キリ-ク一尊と蓮台の蓮弁が確認できたが、
 
背面と蓮台から下部は、土中に埋もれていて確認できない。
 
文献に写真が紹介されているが、
 
長めの蓮弁が5弁確認でき、
 
 
鎌倉時代末期の嘉暦2年(1327)のものに類似し、
 
恐らく同時期のものだろうか。
 
背後に近接して、後日紹介予定の西浦神社境内にも中世石仏があり、
 
周辺の丘陵地を文献から観音山と呼んでいるようである。
 
他の場所と比較して寺院、神社などが横岡、
 
西集落周辺に密集している事から、
 
でに小霊場的な場所となっていたのだろうか。
 
元々この場所に本板碑があったのかは不明。
 
西浦は地名事典によれば、江戸時代の寛文2年(1662)の開発とされる。
 
引用参考文献
「加治川村の文化財」第1集 加治川村教育委員会

 
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下赤谷城の標柱
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山頂の展望台
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下赤谷城遠望
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登山道途中の空堀
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『新潟県中世城館跡等分布調査報告書』新潟県 所収
 
櫛形山脈の北端付近の標高330m程の尾根の末端に築かれている。
 
元々、同族であった奥山庄北条の黒川氏と中条の中条家は
 
ともに敵対関係を持ち、胎内川を挟んで対岸の黒川城の居館と
 
山城を望む位置にある。
 
今回は胎内観音の駐車場から入山し
 
櫛形山脈の一般登山道を30分程で本城跡に到着した。
 
季節が5月半ばとあって山城の巡見としては藪がひどく
 
曲輪の一部と下赤谷城跡から鳥坂山方面への登山道に
 
空堀を確認しただけで、周囲が急斜面であることや、
 
藪がひどく極限られた踏査であった。
 
Y字形の尾根のピ-クが本丸と思われ、石積みの展望台と
 
その下が休憩所になっている。
 
南側斜面に2段の空堀が認められるというが、小規模な山城である。
 
城主、城歴は不明である。
 
下赤谷城に立ってみて、
 
思ったのが鳥坂城(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/31533304.html)の事である。
 
鳥坂城とされる鳥坂山山頂付近には、
 
23段程度の曲輪らしい場所が認められるが、空堀が存在していない。
 
そんな山城があるのか、
 
殆ど防御設備を持たない場所で籠城できるのかという疑問だった。
 
これまでに、鳥坂山付近や下赤谷城周辺で当時の遺物は
 
確認されていないので、
 
仮説の域を出ないが同じ白鳥山城(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/31497355.html)は、
 
伝承では、平安時代末期平家の城小太郎資盛が城主という。
 
源平時代の小規模戦には適していたが、自然地形は要害堅固であったが
 
戦国期の大規模戦に移行するようになると、
 
使用に耐えなくなり鳥坂山の西の尾根末端の白鳥城(標高297m)に本拠を移し
 
新要害としたと言われている。
 
確証もないが下赤谷城こそが本来の鳥坂城で小太郎資盛が籠城し
 
最後の抵抗をした場所ではなかったのではないだろうかと考えてみた。
 
 

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古い追手道の写真
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数年前の追手道の写真
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民家前の柿の古木(伝追手道入口の柿の木)
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佐々木氏が加地庄支配の本拠とした場所で
 
今もなお山城遺構が歴然としている。
 
現在は、加地城跡へは藤戸神社から尾根伝いに
 
登山道が要害山(165.6m)まで付けられていて
 
容易に山頂に登る事ができる。
 
現在の登山道がいつ頃整備されたかよくわからないが、
 
伝承によれば、南東の斜面に残雪のある頃になると
 
電光形の雪形が現れ、それが当時の追手道と言われていて、
 
「新発田市史」にも古い写真が紹介されている。
 
自分も偶然車で付近を通過している時道の雪形が現れ、
 
写真にした事があった。この道形に道がついているはずだが、
 
現在は雑木が茂り登山口や道はわからなくなっているそうである。
 
その道形の登山口付近にMさん宅があり大きな柿の古木が2本入口にある。
 
丁度春先で新芽が出て何百年も経過したと思う木だが、
 
生命力の勢いは衰えていないようである。
 
この2本の木は、加地城の追手道入口の柿の木と言われている。
 
引用参考文献
昭和55年「新発田市史」上巻 新発田市

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