二宮家の長い板塀と門
日本庭園
中世多層塔
蓮野の二宮家は旧加治川村金塚の大地主であった白勢家の土地を管理する
差配として始まったとされる。
その後、土地所有拡大に行き詰まりを感じて有価証券の投資に切り替え、
新発田藩廃藩後も、戦後の農地改革後も財力を維持できたとされている。
5月のバラの咲く頃限定で、一般開放されている。
日本庭園の築山には花崗岩製の多層塔があり、
元来丹波五郎佐エ門長秀が豊臣秀吉より拝領し、
その後丹波公より新発田藩主溝口秀勝公に贈られたものと伝えられている。
新発田藩廃藩まで新発田の清水園にあったものを、
白勢太郎兵衛氏所有になり明治10年(1877)頃、
白勢氏衰退の際二宮家が買い受けたものだという。
新発田市史には「溝口秀勝朝鮮より請来と伝える層塔」と紹介されている。
秀吉が朝鮮出兵の際の戦利品なのだろうか。
丹波五郎佐エ門長秀は、後の初代新発田藩主溝口秀勝公の主君である。
尾張国丹波郡出身で、天文3年(1534)に生まれた。
織田信長に仕え信長の戦勝を陰で支えていた。
その後、信長が本能寺で滅ぼされると、
豊臣方に仕え天下統一の陰に長秀がいた。
溝口秀勝公は天文17年尾張国に生まれ丹波長秀に仕え武功をたてた。
天正9年(1581)戦功により高浜城主となり、
天正11年には大聖寺城主となった。
関ヶ原の合戦では家康方に組し越後に乱入した上杉軍と
それに呼応した一揆(上杉遺民一揆)を平定した。
その後、慶長3年(1598)国主・上杉景勝が会津移封になると
新発田藩主として溝口秀勝が入封した。
引用参考文献
昭和55年「新発田市史」上巻 新発田市
「静勝園」新潟まち遺産の会パンフレット