2010年04月

 
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城跡遠望
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西側居館部より宿田集落を望む
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曲輪
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西側主郭現況
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居館部付近の曲輪
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居館部と東側の二郭を分断する空堀
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慶長瀬波郡絵図
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大家健(1998)
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から北西に1150m付近に位置し、
 
沖積地に岬状に飛び出た標高30m程の尾根上に立地する。
 
城主は宿田氏とされ、文永7年(1270)色部氏公長の三男長茂に
 
小泉庄牛屋条内作路(地点不詳)以西を譲った。
 
長茂は宿田氏の祖とされる。
 
長茂の子長行と色部長直は牛屋条と宿田村の境をめぐり争い、
 
長直が論所の2/3を長行に渡すことで和与が行われている。
 
天正~慶長(15731615)頃の色部年中行事に
 
宿田殿が岩船神社の祭礼で
 
色部家当主の次に射矢を行うことが記事にある。
 
慶長瀬波郡絵図によると、本城跡付近は四方を川に囲まれた中州にあり、
 
平林側、牧ノ目村側に橋が掛けられている。道沿いに民家が並んでいる。
 
自分の考えすぎかもしれないが、
 
本城跡は河川に囲まれた宿田集落も一体となる、
 
平山城的な存在ではなかっただろうか?
 
背後にある平林城の出城的な性格を有した事も考えられようか。
 
今回は城跡への道が無いため、
 
麓の宿田集落の民家裏から城跡の踏査をした。
 
全体的に藪がひどく、一部土取りやテニスコートで破壊されているが、
 
保存状態は良好である。
 
テニスコ-トのすぐ裏のピ-クは広く、居住空間が充分あり、
 
居館としての作事が行われたようにも思う。
 
館の虎口は東南方向にあり、くの字状に道がある。
 
東側にのびる尾根上のピ-クには鍵形の土塁と通路を兼ねた
 
盛土が確認できる。
 
東側のピ-クは現在藪で見通しが利かないが
 
見張り場の役目を担っていたのだろうか。
 
このピ-クの北側斜面にも曲輪や土塁が確認できた。
 
参考までに、中世の遺物として石造物が集落内の大智院(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/40642395.htmlにある。
 
引用参考文献
1998大家健「図説 中世の越後」野島出版
1986「新潟県の地名」日本歴史地名大系15 平凡社

 
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城跡遠望
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西側ピ-クの段切
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東側ピ-ク現況
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東側ピ-ク直下の浅い溝状地形
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伊藤氏原図(「おくやましょう」第33号所収)
 
本城跡は、地方史の「おくやましょう」で、
 
伊藤氏が発見した城跡が紹介され周知されたもので、
 
以前から興味があり行ってみる事にした。
 
なお、遺跡名は伊藤氏が使用し文献によって使用されているのでそれに従った。
 
城跡の位置は、櫛形山脈の主稜線から西側に派生する尾根の末端付近の
 
小ピ-クに立地し、眼下に横岡集落がある。
 
城跡までの登山道は無く、
 
横岡集落の民家近くから藪を漕いで城跡に辿りついた。
 
尾根の末端付近に小ピ-クが2カ所あり、
 
西側の狭いピ-クに23段程度の段切があるだけで構造は簡単である。
 
この周辺には他に空堀や土塁など山城と思うような遺構は確認できない。
 
さらに東側の小ピ-クまで足を延ばす。
 
ここは、自然地形で、特に人工的な場所は見つからなかった。
 
ここから東側に尾根を下るが、
 
ここにも文献では堀(浅い溝)が描かれているが
 
特に人工的な場所はみつからなかった。
 
空堀と明確に判断できそうな場所は見つからなかったので、
 
城跡とするには少し説得力に欠けるが、
 
西側のピ-クはなんとなく人工的な地形かと思える。
 
城跡説を完全に否定する根拠も無いので謎の場所としておきたい。
 
いくつか、可能性として考えられる点を考えてみる。
 
横岡には、加治川村誌によれば、詳細不明であるが、
 
塩津潟新田由来記にある「安倍の残党城郭を構え・・・」の記事がある。
 
横岡は下横岡ではないかと推定されるという。
 
横岡には、神社仏閣に遺跡、遺構が各所に散在するという。
 
熊野神社、横岡峠南側の寺院跡、下横岡松田家脇の寺院跡、
 
通称大門跡東奥の地蔵堂、観音山山頂の観音堂、
 
横岡峠北側西山方向右手の虚空蔵菩薩堂、
 
村中の神明神社など相当数にのぼるという。
 
寺院とかかわりの深い家も多いという。
 
西側のピ-クは、小祠など宗教施設の跡、道跡、
 
南北朝時代に寺尾周辺が古戦場となっている
 
 
当時の簡単な見張場、非常時の村人の避難場所、
 
あるいは自分の誤認で山城と全然関係ない自然地形など色々可能性がある。
 
参考として直接中世城館関連地名と結びつかない可能性があるが、
 
山麓の横岡集落にはブタエ、竹ノ腰、一ノ倉などの地名がある。
 
 
引用参考文献
平成20年 伊藤久司「中世山城跡報告」『おくやましょう』第33号 奥山庄郷土研究会誌
昭和60年「加治川村誌」加治川村役場

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城跡?遠望(鉄塔の奥)
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沢筋のフキノトウ
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登山に使った鉄塔作業道の看板
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小ピ-ク直下の空堀?
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溝状地形
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溝状地形2
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溝状地形3
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位置
 
 
胎内連山の山中に黒俣集落がある。
 
村中を黒俣川が流れ、東側を松ノ木田川が流れて黒俣川と合流する。
 
元徳3年(1331219日鎌倉幕府引付頭人北条俊時奉書によれば、
 
「黒俣」など6カ所をめぐって海老名忠顕と黒川章連が相論し忠顕は、
 
黒俣は持倉の内と主張し、章連は長谷の内と主張している。
 
結果はどうなったのか不明だが、
 
元弘3年(1333)章連が安堵を申請した10カ所に黒俣は含まれていない。
 
本城跡については、地方史の「おくやましょう」第32号に
 
伊藤氏が発見し「黒俣砦跡」として紹介された。
 
その中で、縄張は紹介されていないが、
 
地点と現地の状況が紹介されている。
 
特に文中に、「3本の堀が組み合わされた簡単なものです」とあり、
 
普請状況に興味を持ち現地に赴いた。
 
黒俣集落から林道に入り、
 
途中、残雪があって車を脇に止めて歩いて登山口に向かう。
 
林道沿いに沢があってフキノトウが水際に咲いていて、
 
春の訪れを体感できた。
 
しばらく林道を歩くと、沢を渡ってから砂防ダムがあった。
 
そこを過ぎると送電線鉄塔NO.66の作業道入口があり、
 
作業道を伝って尾根を登ることとした。
 
杉林に入ると道は不鮮明になり、尾根に出ると切跡があった。
 
尾根の切跡を登り送電線鉄塔NO.66を脇に見て、
 
行くと小ピ-クに出た。小ピ-ク直下に空堀状の地形があったが、
 
浅く、北側が緩い斜面の為、迂回すれば簡単に通過でき、
 
空堀ではなく自然の崩落のようにも見えた。
 
小ピ-クを過ぎると尾根筋はやや屈曲し小ピ-クに出る。
 
やや広い尾根上に溝状の地形が杉林の中にあった。
 
複雑な地形でいくつかの溝のような
 
地形組み合わさっているのがみてとれるが、
 
今回は藪が薄い状況の踏査で明確な曲輪や切岸、土橋などの
 
普請は確認できなかった。
 
見落としの可能性大であるが、少し検討の余地がありそうである。
 
引用参考文献
(平成19年)伊藤久司「おくやましょう」第32号 奥山庄郷土研究会誌
1986「新潟県の地名」日本歴史地名大系15 平凡社

 
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沢山城遠望
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痩せた尾根を区切る空堀
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本丸から眼下に荒川本流を望む
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本丸直下の曲輪
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本丸直下の空堀
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320m地点の三角点(この周辺には遺構は確認できなかった)
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位置
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伊藤氏原図(近世関川郷史料4より)
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1987「新潟県中世城館跡等分布調査報告書」所収 新潟県教育委員会
 
関川村の湯蔵山から発する湯蔵川と荒沢の挟まれた山間地に本城跡があり、
 
両河川は荒川本流に注ぐ。
 
湯蔵山から延びる尾根の末端付近にある痩せた尾根上に立地している。
 
本丸の東側のピ-クには320mの三角点がある。
 
本城跡の中腹には、
 
沢ネコヤ跡(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/49591474.html)が展開している。
 
今回は、沢ネコヤ跡の尾根から入山し、沢山城を見学した。
 
主尾根近くになると鉈目があり判然としないが道に見える場所もあり、
 
いくらか人が入山しているように思えた。
 
全体的には山頂から延びる痩せた尾根を23重の空堀で区切り、
 
尾根上に細かい曲輪を配している。
 
それぞれの曲輪は狭い面積のものが多く
 
単純な構造である。特に土塁や縦掘、横堀などの普請は確認できない。
 
山頂本丸は狭く居住空間を持つ広さは無い。
 
本丸から東にある三角点のある320mピ-クには
 
人工的な場所は確認できなかったが、
 
それを結ぶラインには空堀が確認できた。
 
伊藤氏の図面に空堀が3重に描かれているが、
 
本丸直下の空堀は小規模であるが明確に空堀と分かるが他の空堀は浅く
 
少し検討の余地がありそうである。
 
周囲は急斜面で容易に人が近づけないように思えた。
 
小規模な曲輪や空堀から少人数の接近戦を想定させ、
 
推定の域を出ないが鉄砲伝来以前の
 
14世紀代から戦国時代前半の山城のようにも思える。
 
尾根続きの沢ネコヤと時期差があるのかどうか興味がある点でもある。
 
山頂本丸からは眼下に荒川と米沢街道、
 
上関城
 
地方史によれば、本城跡は垂水氏の城とされ、
 
河村秀継の母は奥山庄北条、黒川茂長の息女で夫政秀の没後
 
垂水の地が与えられている。
 
河村氏は秀継の後垂水に移動したと考えられていて、
 
永禄4年(1561912日に垂水源二郎は川中島で戦功をたて
 
上杉謙信より感状が与えられている。
 
沢は慶長瀬波郡絵図に「さわ村知行人垂水氏・・・」とあり、
 
垂水氏の支配下であった事が窺われる。
 
 
 
注)本ブログ内で「沢城」の名称を使用していましたが、
 
あとで沢山城が周知化されているのを知ったので今回「沢山城」としました。
 
沢城=沢山城です。
 
引用参考文献
平成4年「関川村史」関川村
昭和59年 小村 弌編「近世関川郷史料」4 関川村教育委員会

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報告書より

胎内川の南7kmにある砂丘上の遺跡で、
 
県営湛水防除事業に伴い、当時の中条町教育委員会により調査が行われた。

遺構は、数基の土抗といくらかのピットが認められ
 
遺物の出土も殆どが覆土への流れ込みである。

遺物は、縄文土器、続縄文土器、弥生土器、須恵器、土師器、石器が出土している。
 
殆どが破片である。

縄文土器は前期末、中期末大木10式期、後期中葉の加曾利B式に位置付けられているもの、
 
晩期末の一群がある。そして主体的に出土した続縄文土器、弥生天王山式がある。

阿賀野川以北において続縄文土器の出土は希少であり、
 
縄文文化の終焉後に存続した北海道の狩猟、採集社会の指標として
 
東北地方一円に「後北式」として分布域を拡大した。
 
新潟県の海岸部を中心に分布する傾向がある。
 
県内で確認できる続縄文土器は、北海道の諸型式と概ね同一様相を有するという。
 
同地の編年で後北C1式後半~C2・D式後半段階に相当するもので)兵衛遺跡出土のものは、
 
Ⅰ期(C1式後半からC2式初頭)の範疇のものと考えられている。(前山1999)

引用参考文献
1999「新潟県の考古学」新潟県考古学会編 高志書院
1998「兵衛遺跡・四ツ持遺跡」中条町教育委員会

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