城跡遠望
西側居館部より宿田集落を望む
曲輪
西側主郭現況
居館部付近の曲輪
居館部と東側の二郭を分断する空堀
慶長瀬波郡絵図
大家健(1998)
から北西に1150m付近に位置し、
沖積地に岬状に飛び出た標高30m程の尾根上に立地する。
城主は宿田氏とされ、文永7年(1270)色部氏公長の三男長茂に
小泉庄牛屋条内作路(地点不詳)以西を譲った。
長茂は宿田氏の祖とされる。
長茂の子長行と色部長直は牛屋条と宿田村の境をめぐり争い、
長直が論所の2/3を長行に渡すことで和与が行われている。
天正~慶長(1573~1615)頃の色部年中行事に
宿田殿が岩船神社の祭礼で
色部家当主の次に射矢を行うことが記事にある。
慶長瀬波郡絵図によると、本城跡付近は四方を川に囲まれた中州にあり、
平林側、牧ノ目村側に橋が掛けられている。道沿いに民家が並んでいる。
自分の考えすぎかもしれないが、
本城跡は河川に囲まれた宿田集落も一体となる、
平山城的な存在ではなかっただろうか?
背後にある平林城の出城的な性格を有した事も考えられようか。
今回は城跡への道が無いため、
麓の宿田集落の民家裏から城跡の踏査をした。
全体的に藪がひどく、一部土取りやテニスコートで破壊されているが、
保存状態は良好である。
テニスコ-トのすぐ裏のピ-クは広く、居住空間が充分あり、
居館としての作事が行われたようにも思う。
館の虎口は東南方向にあり、くの字状に道がある。
東側にのびる尾根上のピ-クには鍵形の土塁と通路を兼ねた
盛土が確認できる。
東側のピ-クは現在藪で見通しが利かないが
見張り場の役目を担っていたのだろうか。
このピ-クの北側斜面にも曲輪や土塁が確認できた。
参考までに、中世の遺物として石造物が集落内の大智院(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/40642395.html)にある。
引用参考文献
1998大家健「図説 中世の越後」野島出版
1986「新潟県の地名」日本歴史地名大系15 平凡社