2010年02月

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新潟県史より
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(堤 2000)国内の掻器出土遺跡と点数の分布(細石刃文化期)

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五頭山西麓に南北に連なる低丘陵一つに真光寺山(標高128m)がある。

丘陵の東面には真光寺ビレッジがあり、近在に温泉もあり自然がいっぱいある事から、

休日には「別荘でのんびりと過ごそう・・・」と、考えている人もいるだろう。

今は多くの別荘が立ち並んでいる。

現在、遺跡は宅地開発で壊滅したが、

宅地化が進む前、昔すすき原だった緩斜面から1点の小剥片を発見し、

そこが遺跡の可能性を確認した事があった。

新潟県教育委員会発行の「水原郷」に本遺跡から採集の旧石器が紹介されている。

他に「新潟県史」にも写真で紹介されている。

恐らく昔、在野の考古学者によって採集されたものだろう。
石器は阿賀野市の農業資料館に展示されているが、

頁岩製の肉厚の石刃を素材とする掻器(エンドスクレ-パ-)で、

直接手に取って観察できないが末端に急角度の刃部を形成しているようである。

石器は1点で、他に遺物があったかどうかわからないが、

あるとすれば散逸してしまったかもしれない。

遺跡近くの村杉には、新潟県の学史に最初に旧石器時代の東山系の小坂型彫器、石刃核が紹介された

薬師平A遺跡がある。同じ東山系の石器が採集されている。

藤森栄一氏によって「特異な石器」として紹介された石器で、大木金平氏によって採集されたものである。

それは、岩宿遺跡が発見される以前に、すでに旧石器に注目した学者がいたことになる。


本遺跡の石器は1点資料で断言はできないが、

恐らく東山系の石器群の範疇に収まるものだろうか?

掻器は最近まで皮なめしとして、毛皮やなめし皮を衣服の素材として

用いる民族に使用例が認められている。

エスキモ-や、ロシアなど高緯度の地方で使用されている。

北海道や東北には古墳時代や8世紀代の遺跡から掻器がみつかる例がある。

寒冷な気候の場所では皮革は極めて重要な素材で、衣服から簡易テント、

ひもや武具まで必要不可欠な素材で、樹皮を素材とする繊維製品に比べ手に入りやすい。

その半面、気温や、湿度に敏感で高温多湿には腐る短所がある。

サハリン地方では生皮を剥ぐナイフ、生皮から毛を除去するナイフ、

皮の内側の生肉を除去する先端が丸い刃先のスクレ-パ-、

皮なめし用の刃先の鈍いスクレ-パ-、両側に長い柄の中央に媒剤を擦り込む為の

刃部を持つ擦り込み器があり、工程ごとに道具を替えるという報告例が紹介されている。

旧石器時代は氷期であり、本遺跡をはじめ新潟県北部には多くの掻器が出土している。

皮革を中心とする素材が使用されていたのだろうか。

引用参考文献
昭和58年「新潟県史」資料編1 原始 古代 新潟県教育委員会
堤隆 2000「第12回長野県旧石器文化交流会研究発表会発表資料」

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旧豊栄市の阿賀野川右岸に長戸呂集落がある。

集落の南側にある長安寺は蒲原三十三観音の一つで15番霊場になっている。

本尊は釈迦牟尼仏、聖観世音菩薩である。墓地を背にして、

昔庵寺があったという一画に石塔群があり、

その一つに六字名号五輪塔がある。

切石壇、反花座付き基壇とその上に「南無阿弥陀仏」と彫られた五輪塔がのっている。

奇抜なのは水輪にのる火輪で四注部と同様に軒を厚くし、

上縁を稜線に算盤玉状に張り出し上下に分け「阿弥」2字分を刻むことで

五輪塔に六字名号をあてはめている。

五輪塔を転用した六字名号塔は阿賀北唯一のものという。

地輪正面に「元禄9年(1696)4月18日の銘があり、

右側面に「奉供養念仏石塔」、左側面に「願主拾人」の銘がある。


引用参考文献
小野田政雄(平成11年)「阿賀北遺石志」私家本

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2月17日、車で新発田市五十公野の七軒町付近を通過したら、

露店が沢山並び、祭礼の様子。時間があったので、車を降りて立ち寄ってみた。

毎年この日に御開帳するという千手観音堂で、祭礼の幟が立てられていた。

参拝をして、御札を購入し由緒書など聞くと初対面ながら親切な方にお会いでき、

資料を提供していただいて、今回紹介する事ができた。


千手観音堂は天正の新発田合戦の戦場になった五十公野城(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/11158098.html)の麓にあり、

安楽寺や来迎寺の寺院が近くにある。蒲原三十三観音第22番になっているという。

本尊は千手観音菩薩である。



由緒によれば、天平年中に行基が当地を訪ねた際、

ある夜に夢枕に白髪の人が手に御衣木と二本の命棒(延命長寿と無病息災を司る棒)と

福棒(災難除け、降魔安全、知恵福徳、立身出世を司る棒)を持って現れた。

そしてその霊木を差し出して行基に千手観音を彫り、彫るものは極楽浄土の阿弥陀如来に帰依して、

製作し衆生の煩悩を払い御利益とし、毎年正月17日にこの棒を市中に翳せば、

今に御利益があると告げたという。

そして、その白髪の人は不思議にも金色に光る千手観音に化身し

雲に乗って南方方面に帰って行ったという。

行基は、涙を流し感激して、実際に見た千手観音の姿を参考に千手観音像を彫り

補陀落山観音寺を建立して仏像を安置したという。その後兵火に遭い仏像は金色の光を放ちがら、

越後向中条に飛び去り、そこに安置された。

その後、ある夜に因縁が尽きたのか行方が分からなくなり人々は別れを惜しんだという。

何百年か経ち、曽根新田開発の時夜になると水面が光り輝く場所があり、

村人が不思議に思って数人で掘ってみたという。掘りだしてみるとそれは、

金色に輝く千手観音像であったという。その場所は「千手田」と呼ぶようになったとう。

村人は、堂宇を建立し安置したという。寛文2年正月17日、村人の夢枕に千手観音が現れ

「我が旧地は五十公野外城村なり 必(かならず)迎(むかえ)る者あらん 

早く我を送り帰すべし」と告げたという。早速、村人はお告げのように、

五十公野村外城に堂宇を建立し補陀落山千光寺とし仏像を安置した。

その瞬間から、千手から無量の光を放ち病苦から人々を救い、

盲目の人は目が見えるようになり、

女人を難産から救いその霊験を信じて多くの信者が参拝するようになったという。




参考

資料提供(仲山与治兵衛氏)
抑 (そもそも)当山の千手観世音菩薩の由来を尋(たずぬ)るに

人王(じんのう)四十五代 聖武(しょうむ)天皇の御宇(ぎょう) 天平年中(てんぴょうねんちゅう)

行基(ぎょうき)菩薩 諸国遊歴(ゆうれき)し玉ふ(たまう)時 当国(とうこく)へ御下向(ごげこう)

遊(あそば)ばされ 当山の麓に遊戯(ゆうぎ)し玉ひ(たまい)

青山(せいざん)高く秀(ひい)で 真如(しんにょ)の実相を現(げん)し

甘泉長(かんせんとこしなえ)に流れ 般若(はんにゃ)の妙玄(みょうげん)を尽(つく)す

実に補陀落(ふだらく)の一峰(いっぽう)と謂(いえ)るべし

時にある夜(よ) 南方より白髪の異人 手に一本の御衣木(ごいぼく) 二本の棒を携へ

来(たずさえきた)り

告(つげ)て曰(いわく) 我れに秘密の霊木(れいぼく)あり

今汝(いまなんじ)に与(あたえ)ん 速やかに千手観音の形像(ぎょうぞう)を 彫刻すべし

一度(ひとたび)求縁(きゅうえん)の輩(やから)は

現当(げんとう)二世の利益(りやく)を蒙(こうむ)らしめん

亦二本の棒は 命棒福棒也 共に汝に授けん
此(この)命福の棒といふは 我が本師 極楽浄土の教主 阿弥陀如来 及び

諸仏の御前(おんまえ)に置(おい)て誓(ちかっ)て

制作する者也 命棒(めいぼう)といふは 諸人(しょにん)の

寿命長延(じゅみょうちょうえん) 疾除(しつじょ)無病を守り玉ふ(たまう)也

福棒といふは
衆生(しゅじょう)の煩悩(ぼんのう)諸(もろもろ)の災難を除き 悪魔を降伏し 知恵福徳 立身出世を主(つかさ)どらしめ玉ふ(たまう)也

汝早く此(この)二棒を以て 末世(まっせい)の衆生(しゅじょう)を利益(りやく)すべしと

御告を蒙り 故(ゆえ)に此(この)因縁を以て

毎年(まいねん)正月十七日観音棒もて市中に翳事(かざすこと)

今に繁昌せり 嗚呼不思議成哉(ああふしぎなるかな) 白髪の異人

忽ち惣身金色(そうしんこんじき)の姿を現(あらわ)し

無量の光明を放ち 千手観音と化現(けげん)し玉ひ 紫雲に乗り

南方差して帰らせ玉ふ(たまう)行基菩薩は歓喜の涙を流し

地に伏して 大悲(だいひ)の尊像を拝し 直(ただち)に生身(しょうしん)の

観世音菩薩を御手本とし一刀三礼に彫刻遊ばし 一宇を造立(ぞうりゅう)し

補陀落山観音寺(ふだらくさんかんのんじ)と号して

此(この)尊像を安置し玉ふに 霊験日々(れいげんひび)にあらたなり 

依って蒲原二十三番の霊場となれり

然(しか)るに其後兵火の為に 諸堂一時に焼失せりといへども 

尊像は猛火の中より大光明をはなち

同国向中条村(むかいなかじょうむら)へ飛ばせ玉ふ 

依って其村に安置奉り 衆生(しゅじょう)を利益(りやく)し玉ふて 

一百余年也 此(この)地の

因縁尽きけるにや 在る夜不思議成哉 尊像は何国(いづくに)ともなく

虚空に飛びさり玉ふ 諸人(しょにん)別れを惜み

嘆き悲しむといへども更に其(その)かひなし 

然(しか)るにそれより二百七十余年の星霜を経て 曽根新田開発の節夜な夜な水面に

一帯(いったい)の金色の光り現れければ 

諸人(しょにん)奇異の思いをなし 村人寄り集り

光りの下を掘りけるに 嗚呼不思議なるかな 

霊々(れいれい)たる千手観音の尊像を掘出し奉(たてまつ)り

依って諸人(しょにん)瑞喜(ずいき)の思ひをなし 

一宇(いちう)の堂を造営し 安置奉る事 観音霊験記(れいけんき)に詳(つまびらか)也(なり)

この処を今に千手田(せんじゅだ)と号(なづけ)て 

能(よく)諸人(しょにん)のしる処也(ところなり) 

然(しか)るに其(その)後寛文(かんぶん)二年寅の正月十七日の夜に 

曽根新田村中の者の夢に お告げ有りて曰(いわく) 我が旧地は五十公野外城村なり 

必(かならず)迎(むかえ)る者あらん 早く我を送り

帰すべしと 夢想を示し玉ふ 然(しか)るに 当山開山(とうざんかいざん) 

演州禅師(えんしゅうぜんじ)同夜の夢に 千手大悲(せんじゅだいひ)の尊像

枕遍(まくらべ)に立(たた)せ玉ひ 我昔往(むかし)当地に因縁有し也 

明日(みょうにち)我れ西北の間(あいだ)より来て 汝と共に在て

結縁(けちえん)の衆生(しゅじょう)を済度(さいど)せんと 

お告を蒙(こうむ)りしに ふしぎや翌日(よくひ)はたして曽根村より 

千手観世音菩薩の

霊像を送り奉り 昨夜無想の趣(おもむき) くわしく語りければ 

御開山は霊夢奇特(れいむきとく)を感じ ありがたく尊像を請礼(しょうれい)し玉ふに 

忽(たちま)ち千手の御手(みて)より 無量の大光明を放ち玉ふ 

故(ゆえ)に歓喜の余り一宇を建立(こんりゅう)して 

補陀落山千光寺と号す也 此(この)尊像の霊験(れいげん) 或(あるい)は 

六部(ろくぶ)の身を現(げん)して 諸国に結縁(けちえん)を求め

或(あるい)は 医師の身を現(げん)して衆生(しゅじょう)の病苦を救ひ 

女人(にょにん)の為に難産の苦を除き 或(あるい)は 盲目の為に立処(たちどころ)に両眼を開かせ 

子無きものには 福徳智恵(ふくとくちえ)の善男善女(ぜんなんぜんにょ)を授(さずけ)玉ふ

又子有りといへども 多病にてそだちがたき者 

早く此(この)尊像に祈誓(きせい)して観音の取子(とりご)にあがる時は

速(すみやか)に多病変じて無病長寿を得る事擬ひなし 

昔より今に至る迄此(この)近郷にて取子(とりご)に上る者凡(およそ)一萬余人也

然(しかる)といへども一人(ひとり)として短命なる者なし 

是(これ)利生(りしょう)の験(しるし)なる処(ところ) 種々の霊験多しといへども

一々記(いちいちき)し難(がた)し

信心の輩(やから) 此(この)尊像を一度拝すれば 

現(げん)世(せい)には無病延命福徳無量(むびょうえんめいふくとくむりょう)の利益(りえき)を

蒙(こうむる)こと 更に擬ひ(うたがい)なきもの也(なり)

              (平成五年十二月  新発田市菅谷 西光寺にて発見  平山靖夫解読)
              (平成十七年二月  転記 印刷       千光寺千手観音奉賛会)

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塩谷は北前船の港町として栄え、江戸時代には番所も置かれていた。

今も集落の道路沿いに民家は昔の面影を残す家が沢山見受けられ、

地域おこしの一環で民家、酒蔵や史跡のパンフレットを作り訪れた人が見学できるようになっている。

当山は過日紹介した中世板碑(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/49889083.html)が境内にある

寺院で、山形県東田川郡注連寺末である。創立は天文2年(1533)2月金胎両部大日如来である。

開山は尭海(ぎょうかい)で、往時塩谷村は字古屋敷にあり、当山も移転。

江戸時代の享保10年(1725)に現在位置に移った。

明治3年(1870)4月住職清海上人が復飾(一度出家したものが元の俗人に戻ること)し、

一時期廃寺になったが、宝海上人の努力で明治12年に寺号公称再興の許可を得て再興。

しかし、18世以降は後継者が無く現在無住となる。


引用参考文献
昭和60年「神林村誌」神林村

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小学校裏北側付近遠望

創立年は承安3年(1173)9月20日。

祭神は、塩土老翁命で、天照大神、水波女命を合祀している。承安3年9月20日、

字古屋敷に創建され、塩谷新田の産土神を祀る。

江戸時代の享保年間に塩谷集落を現在位置に移転した事により、

堂宇も移転した。現在は、境内に稲荷神社(祭神・倉稲魂命)、

金刀比羅神社(祭神・金山彦命)を祀る。現在、村社として大切にされている。

境内には、北前船の錨が展示されている。

なお、字古屋敷の場所は、公図で調べたわけではないが砂山小学校の北側付近という事を

地元の方から聞いた。

引用参考文献
昭和60年「神林村誌」通史編 神林村

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