2010年01月

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遺跡現況

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遺跡調査区全景(報告書より)

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出土土器(報告書より)


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本遺跡は、村上市市街地の南方に聳える低丘陵地の浦田山丘陵のほぼ中央に位置し、

旧岩船潟の水田地を眼下に見下ろす細尾根上に立地している。

標高24mである。本遺跡は、平成13年に土取りの為、

煙滅する遺跡について事前に調査が行われた。

その結果、縄文時代前期末を中心とする集落跡である事が判明した。

検出遺構は土抗79基、ピット244基である。

土抗のうちフラスコ状土抗24基、Tピット1基、墓の可能性のあるもの7基、

竪穴住居の可能性があるもの3基がある。出土遺物は土器の他に、

石箆、尖頭器、石錐、石核、不定形石器、両極石器、磨石類(凹石、敲石)、石皿、石錘、砥石がある。

土製品や石製品は皆無であった。

わずかに平安時代の土師器、須恵器、縄文時代晩期の土器も出土している。

本遺跡の石器組成は狩猟用と思われる石鏃の出土量が少なく、

漁撈の礫を素材とした石錘が41点出土している。

本遺跡が、旧岩船潟に面している事から、漁撈を主体とした生活基盤を置いた事が推測されている。

また、調理用の磨石類と石皿が定量出土している事からキャンプサイトというより、

定住の場所と推定されている。同時期の近接している遺跡に、

八幡山遺跡があり、関連性も検討する必要がある。


引用参考文献
2008「上ノ山遺跡発掘調査報告書」新潟県岩船郡神林村教育委員会

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つかさま

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つかさま(小野田)
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つかさまの模式図(小野田)
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荒川左岸の佐々木集落。

県道と鳥屋集落に通じるJR米坂線の踏切付近にある。周囲の畑地、墓地、宅地より小高い塚上に

「つかさま」と地元で呼ぶ小堂宇がある。

伝説では、その昔荒川の氾濫原で荒れた土地のため、

行者が拓けた土地になるように生埋めになった場所という。

塚上には昔、大きな桜の木があって3、40年前に伐採したらその人が亡くなり、

家族にも不幸が続いたという。

堂宇内は、扉に鍵が掛けてあり、確認できなかったが小さな扉の穴から

2基の平坦な花崗岩製の板碑2基が確認できた。

文献によれば、地上高94×幅41×厚さ28cmで正面を角長に削平した断面不整四角形を呈する。

正面上部に径9.5cmの円輪を彫りくぼめ、その下に「ア-ンク」(胎蔵界大日如来)を刻む。

真下に「師父母法界」の願文、左寄りに「慶長12年(1607)未丁8月」の紀年銘がある。

もう一方の板碑は、楕円状の平坦部を正面にした

断面不整三角形の花崗岩で地上高87×幅62×厚さ36cm。

正面上部に円輪を彫りくぼめ、その下中央に「バ-ンク」(大日如来=不動明王)を囲み右上に

北上=金剛夜叉、右下に東方=降三世明王、左上に西方=大威徳明王、左下に南方=軍荼利夜叉明王を配する不動曼陀羅が彫られている。

下方中央に、「行者臨□」の銘がある。

先の板碑は、他界した父母の追善供養目的と解され、

武蔵型板碑文化圏の大部分が逆修供養目的であるのに対して、

追善供養目的は珍しいという。阿賀北においても追善供養目的は珍しい。

不動曼陀羅は、疫病除きの際に用いられるが、

この場合は、隣の板碑と二石一組で同時期の供養塔と推測されている。



引用参考文献
平成11年 小野田政雄「阿賀北遺石志」私家本

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阿賀野川左岸の大きく山間地を迂回する河岸段丘上に立地する。

標高は70m前後である。磐越自動車道サ-ビスエリアの造成工事に先立ち、

発掘調査が行われた。調査区内から4ケ所のブロックが検出され広域テフラ・ATの上位で、

よりAS-Kに近い層から遺物がまとまって出土した。

ナイフ形石器、彫器、彫器削片、石刃、石核など12000点以上の石器類が出土し

杉久保型ナイフ形石器などある。基部に素材剥片のバルブを残すものがあるほか

主要剥離面のバルブを除去するようなものも見られる。

彫器は神山型彫器が主体的に出土したがその形態はバラエティ-がある。

剥片剥離技術は両設、単設打面の石刃石核が認められ打面調整、打面再生、頭部調整、稜形成の

調整技術が認められる。石材は頁岩、玉髄、凝灰岩が主体を占める。

特に頁岩で斑紋を持つものがあり、4km先の長谷川上流付近で採集できるものと類似し、

阿賀野市上野林E遺跡、新発田市上新田B遺跡で類似する石材の石器が出土している。

長谷産の可能性も考えられるが、同様の石材の特徴を持つ

長谷以外の産地が存在可能性もあるかもしれないので、

一概に点と線で結ぶには慎重になる必要がある。

引用参考文献
2004「吉ケ沢B地点」新潟県教育委員会 財団法人 新潟県埋蔵文化財調査事業団
2006加藤学『新潟県域における杉久保石器群と東山石器群』「東北日本の石刃石器群」東北日本の旧石器文化を語る会

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水原市街地に当山がある。

創建年代不詳。当初小河原にあったが、

天文13年(1544)現在位置に移転し西福寺

として再興した。

本尊は釈迦牟尼如来仏で、聖観音菩薩は蒲原三十三観音札所巡りの17番になっている。

境内には壮大山門が目を引く。山門は入母屋、瓦葺き、三間一戸の鐘楼門で、

本堂は寄棟の大屋根である。

境内入口に中世出湯系阿弥陀如来座像の石仏群がある。

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水原の住宅地。庚町にある西福寺に隣接して庚申堂の小堂宇がある。

この庚申堂は文献に紹介されていて、

いつ頃建立されたのか不明で、元亀2年(1570)、当時は庚申塚と呼ばれていた。

農民が枯木を払い、松、杉を植えたいと寺に願い出た記録があるという。

今回踏査した時は、きれいに布でくるまれていてよく確認できなかったが、

本尊は石造の文字の庚申塔で、主尊は青面金剛という。

61日毎に庚申待ちを迎えるが、庚申待ちの日は西福寺の住職によろ庚申供養が行われ、

信者は供物を捧げる。庚申信仰は人の体内に三尸の虫がいて日夜人間の行動を監視しているという。

庚申の夜になるとこっそりと体から抜け出し天帝に悪事を伝えるという。

そのため、その日は夜通し起きて、三尸の虫が抜け出さないようにすると言われている。

庚申講は、嘉永4年(1851)正月に始まり次第に信仰されなくなって講中の数も減ったという。

庚申の夜米5合と50円を供え、宿元の家に青面金剛と三猨の掛け軸を掛けて供物をあげ

真言を33回唱えるそうである。

宿元は魚抜きの料理を準備しよもやま話に花を咲かせて夜が明けるのを待つという。



引用参考文献
昭和57年 佐藤栄太郎「庚町の庚申堂」『水原の歴史風土』水原町教育委員会

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