2009年12月

イメージ 1
荒島上水道施設付近

イメージ 2
荒島出土古銭(「あらかわ歴史散歩」より)

イメージ 3






荒島集落は、荒川左岸に位置し米沢街道が東西に通じる。

集落内の「南俣」を元亨3年(1323)

の河村秀久譲状の「ミなミまた」に比定する説もある。

集落内には過日紹介した東岸寺
http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/42629116.html)や

羽黒三山神社


荒島館


などがある。詳細な地点は不明であるが、

地方史によれば荒島上水道の施設付近から地元の人が昭和31年夏、

自分の畑地で桐の苗を植えていて、鍬の先にあたるものを感じたという。

よく泥を除いて見てみると中国の古銭で、その後の調査で開元通宝、乾元重宝、祥符元宝、

治平元宝など40種類の古銭5706枚があったという。

一番古い初鋳年のものは景定元宝(1260)で鎌倉時代のものである。最新のものは箱館通宝で

安政3年(1856)に初鋳されたものである。この箱館通宝は北海道にのみ流通したもので、

日本初の円孔銭である。全て一括で埋められたものであるならば、最新古銭の初鋳年

(1856)から、埋納時期は19世紀中ごろ以降と思われる。

新潟県北部の中世の埋納銭の出土地点は阿賀野市屋敷神遺跡



土地は10箇所あまりあり

珠洲焼の収納容器の場合が多い。

恐らく埋納の原因は、信仰、戦乱などの社会不安が原因と思われるが、

後者の可能性と考えるのが妥当という。

恐らく埋納の原因は、信仰、戦乱などの社会不安が原因と思われるが、

今回の事例は埋納容器の存在の有無が明らかでなく、

展示されている公民館のガラス展示ケ-ス越しに観察したが、

後世の整理作業で全て清掃したためなのか錆化したものが少なく、

古銭が錆びで付着していない点や拓本の文字も鮮明で土中に存在したにしては不自然な点があるが

実際に手にして観察したわけではないのでこれ以上はコメントできない。

機会があったらじっくり観察したいと思った。

引用参考文献
平成3年「あらかわ歴史散歩」荒川町

五頭山麓の村杉温泉は、

南北朝時代の建武2年(1335)に足利家名護屋尾張守家臣の荒木正高が薬師如来の霊夢を感じ

発見したという。

その際、薬師堂を建立したと伝える。

江戸時代の宝永4年(1707)に5代新発田藩主溝口元候が村杉温泉に湯治に来た事が文献にあるという。

近郷の人々の湯治場として栄え仏の恩に報いる為に

薬師堂の参道に杉や松を植えたことから「村杉」の地名が起こったという。

明治8年、明治維新で活躍した遠藤七郎(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/42635643.html)

が村杉温泉の効能を人々に広めようと

村人の協力を得て浴場の改造、拡張をおこなった。昭和36年には台風で薬師堂が倒壊。

再建された。薬師如来は長く「ヤクシサマ」と親しまれ東方瑠璃世界の極楽浄土の教主で、

病気を治してくれる仏と信じられている。昔から村杉温泉には医者は育たないと伝えられ、

温泉の効能と薬師様のご加護で病気が治るため医者が育たないという。

昔は病気が治って使わなくなった松葉杖が沢山奉納されていたという。

参道階段入口付近に中世阿弥陀如来座像(出湯系)があり、

今も水が上げられて近郷の信仰を深めている。背後の山には村杉城(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/49673208.html)

がある。

参考
現地説明板



イメージ 1
薬師堂遠望

イメージ 2
薬師堂

イメージ 3
薬師の湯・・源泉

イメージ 4
中世石仏

イメージ 5

五頭西麓には安野川左岸に位置する「村杉温泉」があり、

建武2年(1335)華報寺薬師堂境内から湧出と伝え、湯治場として古くから栄えた。

背後の城山は地方史に村杉城と紹介され周知化されている。

五頭連峰菱ケ岳から西に派生する尾根の末端付近に立地する。

地形図に城山と明記され標高245mである。

村杉城については、次のように紹介されたものがある。


「越後野志」
「按二此城ハ蓋物色砦ノ址ナルカ 同荘(白河庄)村杉山中二在、城主姓名年歴共二不詳」


「村杉の湯」
城山 村の東南に屹立する一山あり。奮記に、城資長の城跡なりと、伝へる。満山、躑躅(つ

つじ)多く、初夏殆ど紅繡團の光景を呈す。山巓に一巨石あり。また、上杉氏の時代に金鉱を

採掘せる遺跡も存せり。

山麓の雑草中に、鍛工の用いたる吹革用通風土管及び鉱糞の累々たるを認む。


他に「越後出湯温泉誌」には「村に古城址あり、大室源次郎の居所なりしと云う」。

大室源次郎は過日紹介した大室城(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/38687631.html)城主で、

天正11年(1583)の上杉景勝と新発田氏との合戦で大室氏が上杉軍の先陣役を勤めて活躍している。


以上のように、諸説色々ありどれも城主、城歴については決定的な事柄はなく不詳である。

今回は、天候は晴れであったが短時間、そして30~40cmほどの積雪で地表面が覆われていて

、悪条件下でスノ-シュ-をつけての踏査をした為、

あまり成果は得るものは無かったが概略の地点確認をしただけにとどまった。

縄張りは、「笹神村史」に紹介されているが、山頂付近に広い5郭からなる曲輪が確認でき、

山頂に「村杉の湯」で紹介されている”山巓に一巨石あり。”と記載の大きな花崗岩が確認できた。

山頂は居住空間を持つ程の広さの平坦な場所で、

雪に覆われ明確さに欠けるが特に土塁など防御施設は認められないようである。

未確認ながら笹神村史には、空堀が郭の西約150mにあるという。

恐らく、城跡の山麓に湧出する温泉には、ある程度財力のあるものが湯治客として

多く訪れていたに違いない。効能のある温泉で病気が癒され、

それが村杉集落内の薬師堂に代表されるような信仰へとつながり、城と宗教とは無関係ではないように思える。

新潟県北部の寺院(御堂)と屋敷(城郭)のセット関係があると思われる事例が


白鳥山城周辺の城館4・鳥坂城跡山麓居館(東館)/胎内市


でおそらく寺院と思われる大日堂の地名が隣接している。これも御堂のようなものが

隣接していたかもしれない。

宗教と地域支配は密接な関係があったのではないだろうか。

現地へのアクセスも道路が近くまで通じているので再度、無雪期に踏査したいと考えている。



城山までのアクセスは「R建築設計工房」さんのブログ内にリンクしている

HP(ht​tp:​//w​ww.​geo​cit​ies​.jp​/rs​ekk​ei/​)

に村杉城が紹介されているので、そちらを参考にさせていただいた。


引用参考文献
「笹神村史」笹神村
「五頭郷土文化」59

イメージ 1
村杉城遠望

イメージ 2
村杉城山頂の大岩

イメージ 3
主郭の曲輪

イメージ 4
縄張り図(笹神村史)

イメージ 5

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

村上市葡萄集落は、慶長瀬波郡絵図には「ぶだうが谷村」と記され、

式内社論社・矢葺明神(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/38184610.html)が、旧出羽街道沿いにある。

旧出羽街道が南北に通り、街道の東方500の字ヤブキの丸山がある。

この山は富士山のような格好をした山で昔から古墳?あるいは中世の塚?と考えられてき

たが、登った人は限られている。

丸山の標高は558m、昔から地元の人々に恐れられ、山頂に登頂したものは3年以内に死亡するとか、

村で災害や災難があると今でも山の祟りとして恐れられているという。

自分も踏査しようと考えたが、周囲に配慮し丸山には赴かなかった。

神秘に満ちた山で、山頂への道も無く急斜面の為中々人を寄せ付けない。

昭和30年代に松谷時太郎氏、加藤義知氏によって踏査され調査報告書が提出されている。


そのなかで、山頂に前方後円型の古墳に見えるものもあるという。

山頂の状況は、平坦で頂上に古墳の主墳にあたる前方後円墳状の古墳があり

その周囲に陪墳ともいうべき従墳が築造され、頂上の登り口に辿りついた場所に周壕の一部と思われる

濠があり、山頂の周囲が道路状になっているという。

従墳は13基確認でき、全て円墳である。

主墳は帆立貝式を呈するという。山麓に式内社の漆山神社(矢葺明神)があり、

10世紀頃には近くに古代集落が存在していた可能性があって不思議ではないという。

未発掘で、副葬品の出土は無く認定は困難であるが、岩船柵設置後進出した豪族ではないかと

推測しているという。(松谷)


丸山古墳の周囲に沢山に円墳が輪のように囲みながら存在する。

それらを、加藤氏と横山氏、地元案内人で現地調査をして25号円墳まで測量している。

その中で1号墳、9号墳は典型的な陪塚で2号墳は上越の観音半円墳と封土の

プラン外形上類似するという。12号墳は遺存状況もよく被写体によいという。(加藤)


山頂から通称池ノ平と呼ぶ平坦地を望む事ができ、

この古墳の被葬者と墳墓を造営した人々の住居地だったに違いないと調査者は述べている。

その場所は、すっかり耕地整理が進み、以前の面影は感じられない。

周辺を少し歩いてみたが古墳時代と関係あるような遺物は発見できなかった。


引用参考文献
昭和36年「葡萄丸山古墳群調査書」朝日村教育委員会 朝日村郷土史研究会

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

先回紹介した、トナカイの角が出土した事のある下福岡集落の外れに、

棒に白い幣束と縄が縛られて立ててあったのをみつけた。

地元の人に聞くと「オノト」と呼んでいるそうである。

4月と10月の2回神主様から村内安全の為に祈祷してもらうそうである。

本来ならば道にこの縄を渡して道切りをするところ、車社会になった昨今、

それは無理のため棒に縛って一緒にお供えしておくそうである。

集落内にもう一カ所あるらしいが、それは見つけ出すまでには至らなかった。

阿賀野市周辺ではこのような道切りの習俗が一般的であるが、

東蒲原郡の阿賀町一帯では村の入口に木札を作り寺の住職様から祈祷してもらうのが通例のようであり、

その地方によって方法が違うようである。

絵図にも道きり同様の意味のある勧請つりが門に描かれていて中世以来の習俗であることがうかがえる。

↑このページのトップヘ