2008年07月

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今から4年位前だったか?記憶は定かではないが、

秋頃に日本海に面したJR間島駅近くの能化山(標高380m)に、

知り合いと山遊びで出かけた。

連日の快晴でその日も例外なく快晴。

山が好きで、自家用車でいつも出かけるが

「たまには、電車で行ってみるのも面白いのでは、・・」

「どうせ行くなら1時間位の登りの楽な山に行って、

のんびり山頂からの景色を堪能してみるのもいいな」

と考え電車に揺られてながら出かけた。

間島駅から歩いて、能化山登山口から、ゆっくり1時間程度。

山頂からは、広大な日本海と海岸線が見えて気持ちがいい。

まだ、早く山頂に着きすぎて、昼食にはまだ早いが山頂で楽しく

すごす事ができた。

昼食を終えて、下山の準備だけすませて、

立ち上がるとき下を見たら近くに素焼きで灰色の陶器片を発見。

「なんだろ」と思い泥を取ると珠洲焼の片口鉢底部~体部片で、

摺り目は見られない。

もう1人の人が「おっ、ここにも」というと

同じような陶器片。

どうやら、先ほどの片割れらしい。

破片2つが1つに接合できる事が判明した。

内部表面は、摩滅痕が無く、

外部表面全体に底部、体部に赤い樹脂状(理化学分析によって

判断したわけではなく肉眼観察からなので断言できないが、漆か?)

の付着物が後から分かった。

われ口には樹脂状のものは見られない。

前に、珠洲焼で、修理の為に破断面に漆を塗り接合した例を

見た事があるが、今回はそのようなものではない。

また、内部では無く外面、

それも体部の他に底部に樹脂状のものが付着している点は

内部に漆のようなものを入れたものとは異なる。

底部を上にして使用したものなのだろうか?

謎が謎を呼ぶ。

土器の年代は鎌倉時代末のものと思われる。

近くには中世の珠洲焼を出土する遺跡は見当たらないが

能化山から西側に派生する尾根の末端付近に間島城跡(未調査)があり、

関係は無いだろうか。

宗教遺跡の可能性も考えたが、

それに伴う遺物が何回かこの場所を踏査したが

他に遺物は確認できず、結論から言えば、

「なんじゃこりゃ?」ということだろうか。

なぜ、こんな場所に土器落ちていたのか、

いまだによくわからないでいる。

間島集落には曹洞宗仲雲寺があり、

境内の中に、昔山頂にあったという不動明王像の石仏が

安置されているが、年号は刻まれていないので断言できないが

作風から近世のものだろうか。

また、山名も能化(のうけ)あるいは「のっけさん」と呼び

事典で調べてみれば仏教用語で「師として人を教え導く者。

衆生を教化する仏、菩薩などをいう」とあり、

いつの頃からか分からないが山岳宗教的の象徴的な、

山のような気もする。

山麓には「十二」の付く地名が多く山の神や十二神信仰と関係あるの

かな?

何か分かったら報告する事としたい。


引用参考文献
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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関盆地の荒川右岸の河岸段丘上のやや起伏のある緩い傾斜面に立地し、

付近に行き倒れの人の墓がある事から通称やっこはかと呼ばれている。

昭和54年に小川沿いの農道整備工事中に縄文土器や石器が多数採集され

注目された。関川村教育委員会は昭和55年4月から発掘調査を行い、

縄文中期~縄文後期前葉の遺跡である事が判明した。

刺突文の蓋形土器、磨消縄文の浅鉢などの土器や石器類は、

荒川流域でよく見られる在地の石材を使用した

石鏃、石匙、石斧、磨石、敲石、石棒、砥石、凹石や原石が出土した。

土器は縄文中期大木10式期、後期初頭網取式期、三十稲場式期、

南三十稲場式期、宮戸1b式が出土しており宮戸1b式の土器は県内初という。

参考
宮戸1b式土器
長野県八ヶ岳山麓の井戸尻編年の中期中葉の最初に位置する土器型式


現地踏査の際は三十稲場式土器や、
獅子舞岩(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/36296829.html

の獅子舞岩2類類似のチャ-ト、頁岩の剥片類、

女川流域で見られる黄色鉄石英が確認できた。

引用参考文献
平成4年「関川村史」関川村

写真上から
(遺跡付近)
(三十稲場式土器)
(出土土器・・・蓋)
(出土土器・・・浅鉢)
(出土土器)
(宮戸1b式土器・・・戸沢充則編「縄文時代研究事典」東京堂出版より)
(位置)

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村上市山田集落の東側にある山間の山裾部分に共同墓地がある。

墓地の一角に写真の中世板碑が2基あり、

市指定文化財になっていて脇に説明板もある。


説明板によれば


左側 バク・ダ(釈迦・利益)蓮台にのっている。

下方に「貞治第三甲辰七月二六日逝去阿妙」と紀年銘が刻まれている。

高さ94cm、幅40cm、厚さ35cm



右側 同一種字で下部に「口妙大禅定尼応永第六卯乙六月五日」と

刻まれている。

高さ80cm、幅33cm、厚さ33cm



この板碑の「阿妙」という人物は、小泉庄色部系の「色部長倫」の後家・阿妙の

事でこの銘文に見る限りでは14世紀前半に存在していた事が確認された。貞治三

年(1364)が阿妙の没年で、35年後の応永6年(1399)に追善供養の為に建立さ

れたものとされる。

参考
現地説明板

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荒川右岸の河岸段丘上、関川村平内新の西側入口付近に墓地がある。

平内新は江戸時代初期平内と言うものが開拓した地である事が

地名の由来という。

古くは上野と呼ばれ明治22年から現在の地名になる。

丁度墓地の脇を通過した際、小さい五輪塔が2基目に入った。

早速、バイクを止めて見てみる事にした。

2つの塚がくっついたような細長い塚状の上に大小2基の中世五輪塔と、

五輪塔の地輪の脇に角礫の自然石がある。

塚の南側は道で一部削平されていて玉石で補強されていた。

塚の高さ1m程だろうか。

塚上の五輪塔は火輪は最近のものである。

大きい方は、火輪と地輪が最近のもので、

足りない部分を足したものであろう。

この塚は「みささぎ」と呼ぶ塚で

高貴な人の墳墓と考えられている(関川村史)。

五輪塔は雲上公(くものうえこう)とその縁者平馬之介の五輪塔で

あるという。

参考
<雲上公にまつわる伝承>
小泉庄において支配者の交替過程をしめす雲上公伝説がある。

昔、この地方をおさめるものも無く、無法者の天下となっていた。

財力のあるものは財産を奪われ、

貧乏人は裸にさせられて民衆は困惑していた。

そこで、京都に奏上して、

時の天皇後白河院の第靴旅鳥勹西綺完賚困髻

当地方の領主に向かえる事にした。

彼は縁者12人の他に、

数人の縁者を引き連れ、村上市(旧朝日村)の十川(そがわ)の館に来住し、

ようやく国が治まり、民衆の困惑もおさまった。

雲上公はやがて三面川の川狩に興味を持ち連日狩に出かけ、

酒宴を連日開き、海上の船を扇であおいで

船をひっくり返しては大喜びしていたずらするようになった。

家来衆は困って、彼を殺害することを計画し雲上公が魚を追っている隙に、

川に突き落とし溺死させてしまった。

死んだ佐一郎の遺骸を火葬にすると首だけが焼けず、

火の中から首だけ飛び上がり「からから」と笑いながら、

怒る形相で人々をにらみつける。

色々思案して、漆の木で焼いたりしてみたが駄目で失敗し、

雪隠の踏板で焼けばいいと言っては、試すが失敗した。

最後は行者に頼んで焼いてもらった。

行者は嗅水を竹筒に汲み、首に降りかけ、

九字を切り、十字を切りようやく焼く事に成功したという。

主君殺害の情報は直ぐに京にも届き、京からの軍隊から攻撃を受け

打ち破られ数人を除いてみな滅ぼされたという。

雲上公を祀ったのが河内神社で、

縁者の打たれた場所にも河内神社があちこちに建立されている。


岩船郡、村上市には河内神社が15社鎮座しており


三面川流
域興野 布部 宮下 須戸(雲上長男太郎) 高根(雲上公次男治郎) 小揚(兼道) 小川(左大弁卿三男信昌) 中堺(後白河院弟治部)

 
旧岩船潟及び海岸
三日市(師卿) 大塚(繁任) 有明(左府公三男卿任) 河内(伊実) 
寒川(惟頼) 

荒川流域
宮前(雲上公叔父雅方) 平内新(平馬之介)


河内神社の祭神は雲上公とされているが、

古くは事代主命・三島溝咋姫命で採鉄、製鉄の神であり、

河内神社が河川、潟湖、海岸に面した場所に多い事から砂鉄堀に関係する

ことは想像されるという。

平馬之介が土着した平内新もかつて上野と呼ばれ、

北東の鉈打も砂鉄の山地であったという。

他に同集落内にはほぼ同時期と思われる

14世紀代の

中世の板碑(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/40471054.html

が出土している場所が近くにある。

(みささぎ塚)(五輪塔)(位置)

引用参考文献
平成4年「関川村史」関川村
(1989)「角川日本地名大辞典」新潟県15 角川書店

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阿賀野川右岸の、河川氾濫原付近に分田集落がある。

江戸時代街道が整備され宿場町ができ三国街道は東海道、中山道、甲州街道、

日光街道、奥州街道と並んで日本の重要な5街道のうちの一つでだった。

長岡から蒲原平野を通って村上方面へ伸びる街道も三国街道と呼ばれ

海岸通りの「浜通り」、山際を通る「山通り」とも言われ、

そのうち「山通り」の加茂、新津、水原ル-トを「中通り」と呼ばれていた。

分田は宿場町で近くの古川には「渡し」(舟付き場)があり、

明治11年の明治天皇巡幸の際にも分田に立ち寄られたという場所がある。

集落内のほぼ真ん中に紹介する玉泉寺がある。

山門入口には、座禅会の案内板があり、住職様にお聞きしたところ、

最近、ストレスの方が多いそうで無心になって座る事により

気持ちが落ち着くようになるという。

他に大般若、落語会、お彼岸会法要など行っているとの事。

詳細は、玉泉寺HP(http://gyokusenji.org/index.html

を参考にしてください。

当山は、寺伝によれば集落の南の水田地にある

分田城(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/43346089.html

城主分田七郎俊長の祈願寺で、菩提寺でもある。

寺宝には大日如来 薬師如来 如意輪観音 慈母観音 

天井絵 涅般図 大般若経六百巻などがある。

境内墓地には、伝・分田七郎俊長の墓碑と伝える五輪塔群がある。


玉泉寺は、開基・分田七郎俊長で、現在曹洞宗であるが

以前は真言宗寺院で、福聚山無量院(ふくじゅざんむりょういん)と

呼ばれていた。永正元年(1504)下条村(現・阿賀野市の水原)

にある西福寺の末寺として、雲山派天(うんざんはてん)大和尚によって

禅宗の1つである曹洞宗に改宗され、

開山された。

本尊は福満虚空蔵大菩薩、脇仏は毘沙門天と不動明王が祀られている。

本堂は元禄の頃焼失したが、その後再建されている。

玉泉寺が改宗、創立された頃は一向一揆の動乱が全国に広がり、

永正3年越後守護代長尾能景と白河庄水原景家が越中国般若野の合戦で戦死し

その後、守護代の家督を継いだが内紛が勃発し永正の乱が起こる

時期にあたる。
写真上から
(玉泉寺山門)
(伝・分田七郎俊長墓)
(五輪塔1)
(五輪塔2)
(中世出湯系阿弥陀如来坐像石仏)
(位置)


引用参考
玉泉寺HP(玉泉寺のHP(http://gyokusenji.org/index.html
昭和53年「水原町編年史」第1巻 水原町役場
昭和25年 伊藤武雄「分田村郷土史」分田村公民館

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