2008年06月

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先述の引越山城跡(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/42867449.html

の周辺にに位置し、標高20m前後の砂丘の南斜面にある。

昭和31年の新発田川床掘削工事において遺跡の存在が確認され、

その後学識経験者の注目される事になった。

昭和35年には早稲田大学発行の

雑誌「古代」第35号に寺村、関氏により紹介された。

遺物は縄文時代晩期末~弥生時代後期の土器が採集された。

縄文時代晩期末の鳥屋式土器(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/33281909.html

の浮線文を持つ浅鉢形土器や甕形・深鉢形土器を基本とするもの(第儀押法

第儀欧妨綢海掘¬鐇源?總梓鐱?礎羇錥蘰の時期の範疇のものと

思われるもので、浮線文が消失し大洞A´式土器に由来する変形工字文が施文されるもの(第況押法

弥生時代中期後半に属すると思われるもので北陸の小松式の要素を持つもの(第祁押法

弥生時代後期天王山式の要素を持つ一群(第厳押砲ある。

現地、踏査の際は土器や石器などの遺物は確認できなかった。

工場敷地、宅地、畑地、荒地で相当遺跡の砂丘が後世の撹乱を

受けているように思われる。

写真上から
(新発田川)(遺物の概略)(位置)

引用参考文献
(昭和63年)「豊栄市史」資料編1 考古編

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[ muk*gea*199* ] さんから情報をいただき、

乙宝寺の朝鮮三国時代の渡来仏の像について情報をいただき、

仏像展の図録より紹介したいと思います。

新潟県下で最古とされる仏像が乙宝寺にあり、

それと並んで妙高市関山神社の菩薩立像が県内最古の仏像とされている。

平成18年に開催された新潟の仏像展に展示された。図録を参考に紹介する。

「日本書紀」の大化4年(648)に設置されたという

磐船柵は地名が「柵戸」と同義語とする乙付近とする説があり、

いまだにその場所については特定されていない。

現岩船の浦田山には九州、若狭の影響が考えられる

浦田山古墳群(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/30818631.html)

の古墳時代後期の古墳があり、乙宝寺が磐船柵設置以前から大和政権に

つながる有力者が住んでいた可能性が高い。

仏教寺院がこの場所に乙宝寺の前進として建立された可能性が高い。

所蔵されている仏像は北斉の河清4年(565)銘銅造三尊像、新羅と思われる

銅像仏立像がある。

6世紀後半には「日本書紀」によれば高句麗の使者が数回来日している。

銅像三尊仏などがこの地に伝わったものである。

先述の乙宝寺の白鳳期と考えられている塔芯礎(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/31164994.html

と、同寺院の今回紹介する仏像、乙宝寺周辺に展開する7世紀代の

遺跡・城山遺跡が展開している。

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新潟市笹山と、同市内島見の中間付近の砂丘に、

引越山と地元で呼んでいる山があった。

この山を越えて人が往来していた頃、

雪の降る夜になると必ず美しい女性が現れ、通行人に話しかけると、

口が耳まで裂け、顔面血だらけの老婆に変わり、

おんぶをせがんだという噂があった。

その為、村人はこの山を通行しなくなったという伝説がある。


現在は、新発田川が掘削され、砂丘も宅地や畑地、工場用地などで

削平され、往時の面影を追う事はできない。


この付近には城館があったと「温故の栞」に記載されている。

しかし、明確な確証は得られていない。

今回城跡の場所は不明なので、

「説明板」の位置を便宜上の位置として地図上に落としている。

土塁や堀などの城跡の遺構は確認できないが、

この場所に上杉家の武将・須田備後守宗通が明応年中(1492~1501)から

城郭を構え、永正7年(1510)に長尾為景により、

春日山城で討ち死にし、

その後北魚沼郡の塩殿城主長尾右兵衛景教の弟、丹後守景英が居城し、

この地方を治めたとの伝承がある。


砂丘地における城館は、恐らく堀を掘削してもすぐに崩落しやしく、

維持が困難とも思える。城館遺構や、当時の遺物は確認できず詳細について

確証はない。

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本遺跡は、昭和39~40年頃なかけて行われた開発により発見され、

遺跡は大日川の左岸、沖積地に舌状に伸びた標高10m位の海岸砂丘列上に

立地する。

当時は桑の木があって、

その後土取りが行われ煙滅したというが、

自分が踏査の際はまだ、周辺に遺物の散布が見られた。

地元の人は遺跡の場所を「ジョウツカ」と何人かの人が答えた。

発見当時、遺物包含層除去の際一辺4~5mの方形の落ち込みが

確認されたという。多分住居址ではないだろうかと推測されている。

遺物は、これまで紹介されているものに、

須恵器、土師器、土錘、砥石があるという。

自分が現地踏査の際には、須恵器蓋、坏。

土師器は殆どがはけめ調整の小片が多い。

石製品として、石錘が確認できた。

紹介されている土器類は須恵器の坏蓋で口縁部内側に

返りのあるものがある。

無台坏の底部が丸底状のものがあり、他に土師器長甕は恐らく7世紀代のもののように見える。遺

跡の近くには天平8年(736)創建と伝える乙宝寺があり、

そこには乙宝寺塔芯礎(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/31164994.html

があり、古代に存続していた可能性のある寺院がある。


「日本書記」には、大化3年(647)に渟足柵、大化4年(648)には

磐船柵が設置された事になっている。

磐船柵の周辺に柵戸として越後や信州の人々が移住させられ柵戸が

移住させられた。乙の地名は柵戸と同義語とする考えもあり、

もし仮に本遺跡が7世紀代の遺跡と仮定すると、

両城柵が設置された時期と近似しており、興味ある遺跡でもある。

写真
(遺跡全景)
(須恵器)
(土師器)
(石錘・・・扁平な自然石の両端の一部を欠いて石錘としている)
(採集土器1)
(採集土器2)
(位置)

引用参考文献
「中条町史」資料編1 原始・古代・中世

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新発田市南部を流れる佐々木川支流の北江と西江のほぼ中間にあたり、

標高8.5mから8.7mの扇状地に立地する。

本遺跡地は中小河川による豊富な水があり、調査区内にも多量の水が湧出した。

JR西新発田駅が遺跡近くの北側にある。

本遺跡は、以前から周知されており、ほ場整備事業に伴い、

新発田市教育委員会(以後、市教委)が主体となり、

市教委が確認調査を実施。

その後、市教委から委託を受けた加藤建設により

平成18年に本調査が行われた。

調査の結果から神明裏遺跡の南側で蚤取橋遺跡と互いに接していたが、

その境界は不明確となり同一遺跡の可能性も踏まえ、

今回の調査で充分解明できなかったという。


検出遺構は近世以降土坑2基。古代中世川跡3条、溝1条。古墳時代川跡1条、

溝2条、井戸1基、土坑6基、ピット2基がある。

神明裏遺跡で掘建柱建物がある。


2つの遺跡にまたがって検出された川跡からは

多量の須恵器・土師器・木製品、中世の遺物が出土した。

主体は古墳時代後期の遺物で、時間的断絶を経て中世に至る。


古墳時代の須恵器

古墳時代の須恵器、土師器が共伴し、川跡5から目だって出土している。

新潟県内の須恵器窯跡の資料は年々増加し、

新潟県内では7世紀末の出雲崎町の梯子谷窯跡が最も古いと考えられている。

報告書では、川跡から出土した遺物について

陶邑編年(田辺1966・1981)をもとに考察が行われている。


蚤取橋遺跡南地区 第2層群・・・TK10型式期
         第3層群・・・TK10型式期
         第4層群・・・MT15型式期


川跡5はおおよそ須恵器編年から5世紀末~6世紀中葉と考えられている。

古墳時代の土師器

古墳時代の土師器は坏・鉢・高坏・壺・甑・甕などが多量に出土している。

主体は、坏、甕である。報告書では川跡5から出土した土師器の検討を行い、

相田編年(相田2004)に添い考察されている。


土師器坏の特徴は次のような特徴が見られるという。


1類半球状の底部

a口縁部が短く直立する。
b口縁部が内傾する。
c端部が僅かに外傾する
d底部からの変化なし
e内湾する


2類半球状底部で体部中位から上部で括れ、外傾する。
a体部上部で僅かに括れ、外傾する(一部黒色処理をしないものもある)
c体部中位で括れ、口縁が外傾する
d体部中位で括れ、大きく口縁が外傾する
e体部中位で僅かに括れ、稜線状になり、口縁が外傾する

3類 平底
a口縁がほぼ直立する
b 口縁が外傾する
4類体部外面に段がある


1類は古墳時代中期以来の形態で、

2類aには黒色処理を施さないものも一部にある。

2~4層群で主体を占めるのは2類b~eで相田分類A2類に相当し、

相田編年機銑挟釮冒蠹?垢襦


古代の須恵器
古代の須恵器が隣接した神明裏遺跡掘建柱建物、土坑、

本遺跡の川跡1~3・5で出土した。

器種は坏を中心に有台坏、蓋、甕である。

無台坏の多くは、へら切後無調整であるが一部でへら切後にへら削りを

施すものもある。

口径11~14.8cm、底径7.5~10.5cmほどの底部の広いもので、

山三賀編年供銑郡釮塙佑┐蕕譴討りおよそ8世紀中葉~9世紀前半の

年代が考えられている。

中世の遺物

川跡1~3覆土中から中世の遺物が少量出土している。

川跡2から出土した

古瀬戸折縁縁深皿片(古瀬戸後鬼14世紀末~15世紀初頭)や珠洲焼片口鉢(13世紀)、

中世土師器(15世紀前半)が出土しており

川跡1~3の終末期を示すものといえる。


祭祀遺物

川跡5より祭祀関係遺物の手捏土器、剣形木製品、斎串が出土している。

この中で斎串が一箇所に集中して出土している事から

大形の梯子とともに祭祀行為の結果とも見られる。

他は周辺に祭祀遺物が見られない事から他からの流入と考えられているが、

周辺で祭祀が行われたと考えられている。

大形梯子は理科学分析の結果4世紀後半の年代の結果が出ているが

出土層位が川跡5の4層であり須恵器型式TK47~MT15型式である。

梯子は高床建物に使用されるものだが、

2次的に川に転用されたものとも考えられ伐採年代と廃棄年代の

時間差が生じる可能性がある。

木製梯子の出土例は新潟市西蒲区御井戸遺跡に次いで2番目で、

古墳時代の木製剣は県内初の例となる。


写真上から
(遺跡遠景)(本遺跡について報道された新聞記事)(遺跡全体図)(梯子)(剣)(出土須恵器坏・・・神明裏遺跡)(出土須恵器坏・・・蚤取橋遺跡)(相田2004・・・古墳時代後期坏分類図)(古墳時代後期の新潟県沼垂

・岩船、蒲原地域の土器・・・相田2004)(位置)


引用参考文献
2008「蚤取橋遺跡・神明裏遺跡 発掘調査報告書」新発田市教育委員会
新潟日報新聞記事 平成20年2月16日付
相田泰臣(2004)『越後における古墳時代後期を中心とした土器の一様相』「頚城・魚沼地域の土師器を中心として」「新潟考古」15号 新潟県考古学会

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