2007年12月

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本城跡は、ニ王子岳から東方に派生する尾根先端にあり、中世には加地庄の庄域に含まれていた。

五斗蒔集落の東奥にあたる。現在城跡へは城跡の南側に林道があり、

遮断機から少し行くと作業道の分岐でそこから入山する。

城跡の近くに送電線用鉄塔があり、そこまで作業道があるので、少しの藪漕ぎで城跡附近に到達できる。

最高所は標高300mで小枯谷を挟んでコの字状に無数の大小の郭群があり、北、西、の尾根上に

堀切がある。通路遺構と思えるものが谷の郭群を周回して付けられている。

西側に下った部分にも郭群が見られる。恐らく、コ字状に付けられた郭群は枯沢の谷からの

侵入に対しての防備であろうか。細かい、郭群の普請の特徴、縦堀や横堀が

見られない事から縦堀や横堀が盛行する永禄~天文期以前の普請ようにも思える。

城跡に関連する文献も無く、城主、城歴不明であり詳細不明である。

五斗蒔城から尾根続きで東方へ800mの標高420m附近に大南俣城跡、更に430m位北に下った附近にも

大南俣城跡の東尾根に城跡遺構があり、3城跡が連携、一体化した城跡群と見る事も可能であろうか。


写真上から
(城跡遠望)(登山口の様子・・・左の鉄塔用作業道を行きます)(空堀)(本丸附近)(位置)(縄張り図)
引用参考文献
水沢幸一(2006)『越後加地庄の城館』「新潟考古」第17号

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明日から雪の長期予報。しばらく晴天は望めそうもないので、ブログの考古学の友だちの古墳探しをしている「

雑魚隊長と秘密の基地」の「zakotaityou」さん(以後隊長さん)と、二人で行きました。

何か、いつも1人なので楽しい巡検でした。


当ブログによく来てくださいます

「雅之」さんが発見したという情報を「雅之」さんから掲示板で頂き、向山の山頂付近の高まりと謎の遺構(仮称・大崎陣所)(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/38071429.html)の確認に

行く事にしました。情報を寄せていただきました「雅之」さんありがとうございます。


参考 雅之さんの情報
「本遺構(仮称・大崎陣所)を見学したあと、この丘陵の三角点の位置まで歩いてみました。三角点手前に円形

の径2,3m、高さ数10cmのマウンドが有りました。木の根の高まりの可能性が高いのですが。三角点までは、なだ

らかな丘陵が続くのみで人工物は殆ど見られませんでした(私が見たんで、見落としの可能性大)。」

という内容でした。



五頭連峰北端附近の独立丘陵・向山の山頂付近の稜線上に立地する。

先日紹介した向山の仮称・陣所を確認し、簡単に巻尺で測量し、さらに向山の山頂近くまで、

尾根伝いに足を伸ばす。冬季とは言え、雪もなく、快適な藪漕ぎで、雪が近いのか冬の冷たい

風が少し体に感じる。

向山の山頂まで現在位置を確認しながら行くと山頂手前の尾根の広い部分に

高さ50CM、3m×3mの楕円形(少し形が崩れているのか、元々方形であったか?)の高まりを発見。

隊長さんと私・「ぽんぽこ」の目で見ると、どう見ても人工物のような感触を受けた。

恐らく、「雅之」さんのおっしゃっていたものは、この事かと直感した。



この高まりは何かという事を二人で話あった。

山頂から離れた場所に単独で存在し、何かを象徴するものとしては考え難い。

従って経塚や庚申塚や念仏塚のような信仰の塚とは別の性格を持つもののように思う?

また、道路跡のようなものも近くに見当たらないので、道標のようなものとは違うように思われる。

附近に、奉賽銭のようなものがあるか、周辺には人工物や搬入品の礫や土器のようなものは無いか

表面を探したが分からなかった。

附近を削平した痕跡も無いようである。

周辺が、元々平坦な広い尾根なのでその必要も無いのだろう。周溝も見当たらない。

地元の方が作製した、向山周辺の地名の地図では近くに「万福寺跡」の記載があり、

その場所の踏査は未確認だが、山のいたるところに「ランドウ」「寺山」があり宗教的地名があり

少し気になる所であるが関連は不明である。

長い事を色々書いたが、一言で言えば仮に向山の塚としたが性格不明という事になるが、

知識不足の2人には、平坦な尾根上に不自然に高い場所で人工物に見えた。


同様に尾根・稜線上に塚がある例として、県北部では胎内市韋駄天山墓跡(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/35187834.html)、

阿賀野市院殿塚(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/38653106.html )のような人の墓の可能性も

捨てがたいが、地元の方から教えていただいた話で、病気などで弱った馬など、山に連れて行き

死に場所が決まった時点で、その場で殺して墓に埋めた話も聞いた。

関係あるかどうか分からないが注意しておきたい情報である。

その場合は、蒼前神信仰や馬頭観音などの信仰の介在も考えられが、

それに伴うものが周辺に確認できずこれについても確証は得られていない。

はたまた、天正年間の新発田氏と上杉氏の合戦で、無念にも命を落とした武将の墓か?

遺構の性格については、今後の調査の進展で明らかになる事を期待したい。

写真上から
(塚状の高まりのある場所・・・雨具の置いてある場所)(向山の三角点)(向山遠望)(八幡集落周辺の地名)(位置)

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阿賀野川と常浪川の合流地点の字城山(別名・狐戻城)にあり、

古くから津川の町並みがあり水運と会津街道の要衝であった。

川の合流地点に麒麟山があり、標高は194mでそんなに高くはない山であるが、

岩山で峻険な山である。この場所に山城が築かれている。現況は登山道が整備されており、

山頂には展望台もある。

山頂本丸は細長い区画で山頂本丸から東に延びる尾根は空堀で区切られている。

山自体岩山で峻険な事から、天然の要害で尾根を区切る空堀も一条であり、

その延長線が北側に縦堀となって斜面に掘られている。主郭は3段に分かれていて大手からの

虎口は石垣で覆われ近世的城郭の様相も垣間見る。主郭を結ぶ通路には石の段が見られ、

郭内には、所々搬入されたと思えるような亜円礫、亜角礫が散見される。二の丸の東端には、

櫓台の跡があり方形の土壇となっている。阿賀野川に面した場所には、急な斜面を下りて行くと

港と考えられている場所がある。常浪川添いの登山道入口から城跡の入口付近に折曲歪の土塁が見られ、

幾つか平坦な場所が見られ居住空間と思われる場所がある。

大手口と思われる。縄張りの様相から中世後半から近世初頭期の城郭の特徴があると考えられている。


城主は会津の所領を与えられた佐原氏の一族で藤倉盛弘が建長4年(1252)に築城した。

津川城は会津芦名氏との連絡の要衝で長尾為景の津川城攻撃など歴戦の地でもある。

越後の御館の乱以後、論功行賞に不満を持った新発田因幡守重家は上杉景勝と正面から対立する

運命になり、当時の津川城主・金上盛備氏は上杉との中立を保持しながらも新発田氏に対し

援軍や兵糧などの援助を行っていた。上杉景勝はこうした現状から、直接新発田氏を攻め落とすには

難しいと判断、新発田氏と内通していた赤谷、米倉、津川を攻め連絡を絶つ手段に出たのである。

天正15年(1587)7月23日、景勝は1万騎を従え春日山城から新発田城下に侵攻した。

会津の津川城との連絡を絶つ為、赤谷城攻めを行った。

その時、津川城の金上氏は後詰の兵を出したが一の渡附近で戦闘になって敗退したが、

改めて300騎で諏訪峠に至るが小桶に上杉軍集結の噂を聞き、撤退した。

これで赤谷城も孤立し落城した。天正17年(1589)伊達政宗との摺上原合戦で芦名氏は滅亡し、

金上盛備氏も戦死。

その後、在番が何人か置かれ江戸時代に入り寛政4年、加藤氏入封後、江戸幕府の命により廃城になる。

参考
「新編 会津風土記」

狐戻塁跡

町ノ東北二町ニアリ、頂上マテ三町、周一里計ノ巖山ナリ、其形麒麟ニ似タリトテ麒麟山トモ名ク、

西端ノ頂上ニ本丸ノ跡アリ、東西八間・南北十二間計、半腹ニニ三ノ丸、或ハ出丸・馬場等ノ遺跡アリ、

西南ハ室谷川ニ臨ミ東北ニ揚川ヲ瞰ル、ニ水山下ヲ環リ西ニ至テ流レヲ合ス、

東ハ石壁高ク屏風ヲタテタルカ如シ、其嶮狐モ過ルコトアタハス此ニ至テ却歩ス、

故ニ狐戻ノ名アリトソ、斯ク双ヒナキ要害ナレトモ水ニ乏ク、桔槹ニテ水ヲ汲シ跡山ノホトニアリ、

南ノ方ニ隍ヲ回ラシ、石垣モ遺レリ、又東南ノ山麓ニ周十八間ノ沼アリ、鶴沼ト云、

其上ノ方ニ旧城門アリシトテ今天守ト称ス、相伝テ往古安部貞任コレニ居リ、

マタ宗任コレニ居ルトモ云、一説ニハ建長四年葦名ノ臣藤倉伯耆守盛弘ト云者コレヲ築キ、

子孫相続テ十四代遠江守盛備マテ此ニ住スト云、天正十八年ヨリ蒲生氏ノ臣北川土佐某、

建長4年ヨリ上杉氏ノ臣小国但馬某、同六年ヨリ蒲生氏ノ臣岡半兵衛重政、

同十八年ヨリ本山豊前某城代トシテ此ニ居ル、同十九年下野守忠郷其弟中務大輔忠知ニ与フ、

忠知幼ケレハ蒲生五郎兵衛郷春城代タリ、元和元年ニ毀ツ、城附ノモノナリトテ馬鞍旗竿鉛子等アリ、

今津川町ノ倉ニ蔵ム



写真上から

(山頂本丸の城跡の碑)(山頂本丸の空堀)(城の守護神)(本丸附近の石垣)(本丸附近に残る礎石あるいは区画石)(主郭への通路に残る石階段)(櫓跡)(城跡北側斜面の曲輪群)(位置)

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五頭山麓に連なる低丘陵の内の一つの鳥屋ヶ峰丘陵の尾根西端付近にある。

現況は、大室集落にある日吉神社境内と杉林、宅地になっている。

主郭の境内と宅地との境界付近に土塁痕が認められ、


更正図からその東側の宅地にも複郭が存在したようにも思う。

低い丘陵に、広い郭を配置し戦国時代の館城を想定できようか?

現在の神社本殿がある場所と、境内の東側に一段低く平坦地が認められ郭と思われる。

元和9年(1623)の安田組組之内検地帳に「たてのうち」の地名の記載がある。


城主は大室主計(大室源次郎)と伝えられ、天正11年(1583)の上杉景勝と新発田氏との合戦で

大室氏が上杉軍の先陣役を勤めて活躍している。


大室氏の八幡での活躍
天正11年8月18日、新発田重家は手勢3000人を率いて上杉景勝軍と激突。

景勝は大室源次郎を先陣として真木山の林の中に伏せ、右方に小倉将監、安田能元、

左方に島津左京亮、河田軍兵衛、前備に直江兼続、後陣に泉沢久秀で数時間に及ぶ戦闘でも

決着が付かなかった。

新発田重家方の浦城(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/23078894.html
)城主・山田源八朗が城を下り横合いから切り込んで、

景勝方の小倉、安田が防戦したが次第に押されて後退した。

上杉政繁が浦村城を城主が城を下りている隙を狙い、乗っ取り、更に真木山の大室源次郎とともに

重家軍を攻撃し、景勝自信も槍や刀を振るい奮戦し景勝方の勝利となった。

浦城城主・山田源八朗とともに討ち死にし、

八幡城(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/18926602.html)も落城した。


「温古の栞」二十一篇

北蒲原郡白河庄大室山の古城跡は、建久年中より佐々木盛綱の一族大室家の居城也、

貞治年中の当主主計正は上杉憲顯に属し戦功あり、故に代々此辺を一円に領せしが、

永正7年6月19日当主兵庫重政は、魚沼郡長森原に於いて上杉顯定と共に討死し、

今尚同地に墳墓あり。


「越後野志」
同庄大室村ニ在、城主大室主計、米沢候上杉家ニ其ノ後裔アリト云ウ

写真上から
(日吉神社)(土塁上にある小祠)(主郭から土塁を望む)(位置)(更正図)

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阿賀野川流域の巡検の際、県道を車で走っていたら阿賀町の深戸集落の県道端に神社風の

堂宇(地蔵堂、観音堂)と脇に石が納められた小祠があった。

何だろうと思い車を止めて石の入った小祠内を覗くと縦長で、先端が少しくびれている。

石が専用の台座の上に、大事に祀られていた。

石の前には水でもあげたのか茶碗がいくつも奉納してあり、地元の信仰の高さを窺える。

丁度、犬の散歩にやってきた人がいたので「これは、何様ですか?」と聞いた。

これは、特に名称は無いが、今から15年位前砂防ダムを作った際に出てきた石で、

男性性器に似ていて、昔から蹴飛ばしたり、捨てたりして粗末にすると神罰があるといわれ、

大事に保存しているという。このような、類のものは各所で散見し文献にも紹介されている。

この石も、恐らく作神や安産、子育てのような生産に纏わる石では無いだろうか?

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