2007年08月

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阿賀野川右岸の近接して高森集落があり集落の外れの水田の中に中世出湯系阿弥陀如来石仏2基がある。

すぐ脇にご来歴を刻んだ石碑(昭和54年有志により建立)と、

殆ど文字が削られて文字の判読ができない長方形の石造物があり僅かに「梅」か他、

と判読が難しい文字が確認できる。

現地の石碑によれば瑠璃光寺跡とあり、周辺を踏査したが当時の遺物と思われるものは、

石仏の他に確認できなかった。周辺には森下集落に

森下遺跡の中世備蓄銭出土地(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/35698120.html)、

下前川原遺跡があり中世遺跡が阿賀野川右岸に並ぶ。



石碑の銘文より

「この地一本杉の地蔵様と称し文安5年(1448)永称庵寺寿覚開創の瑠璃光寺跡なりして現存す

 茲に安置し奉る地蔵尊は大正末期まで阿賀野川の渡船場の道路に面し往来の人々等しく

現前の地蔵尊に礼拝し道中安全と延命息災を祈願し香華絶えることなしと伝えきく 

時代の変遷で渡舟場は閉鎖となる昔日の面影を後世に継承しいさ

さか報恩の餘香を法孫に記し建碑す」

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阿賀野川右岸に近接する森下集落の北西に位置する。

昭和37年11月に畑耕作中に、鎌倉時代の古瀬戸灰釉瓶子に多量の中国古銭が入って出土している。

瓶子は直立状態で出土した。開元通宝(唐・621)、咸平元宝(北宋・998)、祥符元宝(北宋・1008)、

天聖元宝(北宋・1023)、皇宋通宝(北宋・1039)、治平元宝(北宋・1064)、熙寧元宝(北宋1068)、

元祐通宝(北宋・1086)、聖宋元宝(北宋・1101)、政和通宝(北宋・1111)、

淳寧元宝(南宋・1174)、嘉泰通宝(南宋・1201)、永楽通宝(明・1408)、

太平通宝(北宋・976)、淳化元宝(北宋・990)、至道元宝(北宋・995)、

景徳元宝(北宋・1044)、天喜(PCで変換不能・・ネ辺に喜)通宝(北宋・1017)、

至和通宝(北宋・1054)、大観通宝(北宋・1107)、金の正隆元宝(1158)、

嘉定通宝(南宋・1208)、紹定通宝(南宋・1228)、明の洪武通宝(1368)・・・{( )内初鋳年}

の銭貨が出土している。古銭は全て、中国銭で日本国内のものは含まれていない。

古銭の下限は永楽通宝で、15世紀中~後半(室町~戦国期)に埋納された可能性が高いと

考えられている。収納用の瓶子は器高23cm、底径9.4cm、最大径は肩部にあり16.4cmを測る。

偶然、犬の散歩に来ていた人に、本遺跡の事を聞いたら、遺跡の近くの人であった。

出土地点を指さして教えていただいた。周辺を踏査したが当時の遺物と思われるものは

確認できなかった。県内の備蓄銭出土地は10箇所あまりあり、珠洲焼の収納容器の場合が多い。

恐らく埋納の原因は、信仰、戦乱などの社会不安が原因と思われるが、

後者の可能性と考えるのが妥当という。


引用参考文献
(2004)「下前川原遺跡」豊栄市教育委員会
「豊栄市史」資料編1 考古編

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文安2年(1446)の室町時代に白河庄(阿賀野市)華報寺の開基大庵梵守(だいあんぼんしゅ)禅師が

曹洞宗として中興した。何回か火災にあったが、幸運にも本尊の阿弥陀如来や江戸時代初期の

過去帳は災難を免れた。阿弥陀如来木像は県内では希少な鎌倉時代の仏像で平成2年県指定文化財に

指定されている。他に平安時代の地蔵尊や鎌倉時代の不動明王があるという。

長楽寺は延享3年(1746)、水原代官所が置かれてから

水原代官所(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/29913983.html)関係者の菩提寺となっている。

他に中世出湯系阿弥陀如来石仏、中世五輪塔が2基あり、

水原城主(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/29913983.html))の水原平七郎満家が

上杉景勝に従って、新発田氏を攻める際、新発田の法正橋付近で戦死。その後、在番として

水原常陸介親憲を置いた。戦闘の様子は、(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/25417929.html)を

参考にしてください。当山には夫妻の位牌があるというが未確認。

水原氏の墓標という伝承は(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/29526246.html)でもある。



越後野志 上巻

「水原左近将監平元信夫夫妻墓

蒲原郡白河庄出湯村華報寺( http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/29526246.html)二在、三重石塔高サ五尺許、妻ノ石塔ハ少シヒクシ、

塔古ナリテ碑文漫滅シテ見へズ、水原長楽寺二牌アリ、錦流寺殿鳳嶽道麟大居士、

天正十二年八月二十六日卒、妻ノ牌二華笑院麟山貞鳳大姉、天正十九年二月二日卒、

墳上各喬松一株アリ」の記事がある。

写真上から
(曹洞宗能満山長楽寺)(中世石仏)(寺院ご来歴)(墓址説明版)(五輪塔・・・伝・水原氏夫妻の墓)
引用参考文献

長楽寺「墓址の栞」

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幕末の越後、戊辰戦争の時、西郷隆盛が新潟市太夫浜に布陣した事が伝えられている。

新潟攻略後8月中旬から9月中旬まで滞陣したという。

西郷は8月6日三隊を率いて春日丸で鹿児島をたち、柏崎港、新潟港に寄港し8月11日津島屋に到着し、

すぐ松ヶ崎に移動した。

滞在中桂太郎、黒田了助の訪問を受け、奥羽列藩、東北征伐の軍議をしたという。

9月9日松ヶ崎出発。9月14日米沢、9月27日庄内に移動した。

当時、新政府軍の上陸は西郷の上陸より早く、7月25日朝であった。

軍艦2隻、輸送船4隻、兵約1000人と言われている。当時、子供だった人の話では、

「25日朝、松ヶ崎の谷地でマグサを刈っていると、6隻の蒸気船が沖に並び、黒い煙をあげていた。

30隻ものテント船が浜に向かってくる。

6時過ぎには、浜は新政府軍で一杯になり、浜全体が黒くなった。

兵士はザンギリ頭に、韮山笠、ダンブクロにわらじ履、鉄砲を担ぎ、腰には刀を差していた。

各人、紐付き弁当を下げ、弾薬は1人100発位持っていたという。

上陸した新政府軍は野次馬や漁師を使い物資を運んだという。

西郷隆盛の宿営地跡は太夫浜集落のH酒屋の裏に建っていて昭和5年9月、地元有志によって建立された。


引用参考文献
「北地区あれこれなんでもマップ」
金塚友之丞(昭和11年)『西郷隆盛の松ヶ崎滞陣に就いて』「高志路」23号 高志社

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新潟平野の沖積地に野地城集落がある。水原市街地から南、国道49号線が集落内を通る。

国道から福田へ向かう道路の途中に墓地があり、畑地の一角に2基の墓がある。

北側は最近建立されたもので、南側の角柱塔婆には、


正面
「奉納大乗妙典 六十六部供養塔」・・・中央
「日月清明 副願 重五郎 大阪」・・・左
「天下和順  願主 與三郎 大阪」・・・右

右側面
「安政五年(・・・1858年)九月 野地城村  近藤與五左衛門」

左側面
「世話人 
大阪 滝之助
大阪 鶴吉
甲州 清吉」

台石正面
「越後 金盃
攝州 梅吉
仁兵衛
大阪 松蒼
尾州 金之助

台石左側面
「大阪 三み
同 志け
同 三称
甲州 きく
尾州 りせ
ミノ 三せ
あき きい
デハ ちよ
大阪 やす」

とある。


隣の小さい石造物には

正面
「六十六部塚 與三良」・・・中央
「攝州」
「大■(損傷)恵承信士」
右側面
「同行衆中
 当村施主 與五左衛門」

とある。

こちらの方は安政時代に老齢の攝州の六十六部が当地kさん宅に生き枯れ寸前で草鞋を脱ぎ、

kさんの手厚い介護にも関わらず、他界したという。

Kさんは縁者もいない六十六部を手厚く葬ったという。

六十六部供養塔の下周辺は直径4~6cm位)の扁平な石が集積してあり、

大きさや形に斉一性があり選択的に川原などから採集してきたものだろうか?

南側は周辺の畑地より30~40cm程高く、北側は最近の墓建立で攪乱を受け同様の石が散乱している。

南側に残る盛土の形状から元々方形を呈したものではないかと考えた。


地方史によれば、この周辺は新田氏の古戦場と伝えられ、

昭和20年頃まで七箇所、10~15m間隔で塚があったと

いう。塚の上には杉木立が数本あったという。今では全て削平され宅地や畑地、

水田になりその面影を追えない。



恐らく、全国廻国巡礼の際、当地を訪れた廻国聖が建立したものだろう。

大阪、尾州、甲州、越後など出身地と思われる、全国からの六十六部が見られる。

紀年銘から
19世紀中葉の造立と思われ、

下の礫の集積は上方の石造物造立以前の築造と思われる。

写真上から
(六十六部塚)(奉賽銭か?新寛永通宝)

引用参考文献
山賀兵一(昭和56年)「水原郷土誌料」第13集

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