加治川小学校建設に伴い、遺跡の発掘調査が新発田市教育委員会が調査主体となり平成17年~18年に、
国際航業株式会社に委託し実施された。
本遺跡は、新潟市東方約27km、越後平野の北部に位置する。
市街地の北東から南西にかけてJR羽越線が横切る。
市域の中央を流れる加治川は、ニ王子岳西麓に開析扇状地を形成し、日本海に注ぐ。
ニ王子岳から流れ出た旧今泉川は、今泉川は櫛形山脈の南端附近を通過し、
越後平野を北上して旧塩津潟に注いでいた。江戸時代の干拓工事により瀬替えされ、
現在は坂井川そして加治川に合流している。遺跡は旧今泉川の塩津潟に注ぐ河口付近の
自然堤防上に立地しているものと思われる。標高約6mである。
検出遺構は水田畦8箇所、水田区画12区画、溝9条、土坑10基、自然流路5条、溝1条(古墳前期)他で、
水田関係は古代末~中世初頭(8世紀末~13世紀初頭)と考えられている。
出土遺物は平安時代(8世紀末~10世紀初頭)の遺物が主体を占めるが、
縄文時代後期の鉢片1点、弥生後期初頭の天王山式期の深鉢片、古墳時代前期中葉、後葉の土師器甕、
壺、高杯、鉢が出土している。平安時代は土師器、黒色土器、須恵器がある。
平安時代の須恵器11点、土師器1点には墨書土器が確認され、土師器の墨書は不明であるが、
須恵器には「φ」「光」らしい文字が記載され、墨書は佐渡産、在地産須恵器の区別なく存在する
ことから、本遺跡で何らかの意味あいが考えられるという。
水田畦に打ち込まれた木製杭の年代測定は11世紀中~13世紀初頭で、
当該期に帰属する遺物は1点の土師器有台碗が出土しているのみで、
水田遺構という性格から当然であるが、水田のおよその年代観を把握することができた。
今回の調査で集落の中核部分は検出されなかったが、周辺にその中心があるものと思われる。
引用参考文献
(2006)「家ノ内遺跡発掘調査報告書」新発田市教育委員会
国際航業株式会社に委託し実施された。
本遺跡は、新潟市東方約27km、越後平野の北部に位置する。
市街地の北東から南西にかけてJR羽越線が横切る。
市域の中央を流れる加治川は、ニ王子岳西麓に開析扇状地を形成し、日本海に注ぐ。
ニ王子岳から流れ出た旧今泉川は、今泉川は櫛形山脈の南端附近を通過し、
越後平野を北上して旧塩津潟に注いでいた。江戸時代の干拓工事により瀬替えされ、
現在は坂井川そして加治川に合流している。遺跡は旧今泉川の塩津潟に注ぐ河口付近の
自然堤防上に立地しているものと思われる。標高約6mである。
検出遺構は水田畦8箇所、水田区画12区画、溝9条、土坑10基、自然流路5条、溝1条(古墳前期)他で、
水田関係は古代末~中世初頭(8世紀末~13世紀初頭)と考えられている。
出土遺物は平安時代(8世紀末~10世紀初頭)の遺物が主体を占めるが、
縄文時代後期の鉢片1点、弥生後期初頭の天王山式期の深鉢片、古墳時代前期中葉、後葉の土師器甕、
壺、高杯、鉢が出土している。平安時代は土師器、黒色土器、須恵器がある。
平安時代の須恵器11点、土師器1点には墨書土器が確認され、土師器の墨書は不明であるが、
須恵器には「φ」「光」らしい文字が記載され、墨書は佐渡産、在地産須恵器の区別なく存在する
ことから、本遺跡で何らかの意味あいが考えられるという。
水田畦に打ち込まれた木製杭の年代測定は11世紀中~13世紀初頭で、
当該期に帰属する遺物は1点の土師器有台碗が出土しているのみで、
水田遺構という性格から当然であるが、水田のおよその年代観を把握することができた。
今回の調査で集落の中核部分は検出されなかったが、周辺にその中心があるものと思われる。
引用参考文献
(2006)「家ノ内遺跡発掘調査報告書」新発田市教育委員会