2007年05月

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加治川小学校建設に伴い、遺跡の発掘調査が新発田市教育委員会が調査主体となり平成17年~18年に、

国際航業株式会社に委託し実施された。


本遺跡は、新潟市東方約27km、越後平野の北部に位置する。

市街地の北東から南西にかけてJR羽越線が横切る。

市域の中央を流れる加治川は、ニ王子岳西麓に開析扇状地を形成し、日本海に注ぐ。

ニ王子岳から流れ出た旧今泉川は、今泉川は櫛形山脈の南端附近を通過し、

越後平野を北上して旧塩津潟に注いでいた。江戸時代の干拓工事により瀬替えされ、

現在は坂井川そして加治川に合流している。遺跡は旧今泉川の塩津潟に注ぐ河口付近の

自然堤防上に立地しているものと思われる。標高約6mである。


検出遺構は水田畦8箇所、水田区画12区画、溝9条、土坑10基、自然流路5条、溝1条(古墳前期)他で、

水田関係は古代末~中世初頭(8世紀末~13世紀初頭)と考えられている。

出土遺物は平安時代(8世紀末~10世紀初頭)の遺物が主体を占めるが、

縄文時代後期の鉢片1点、弥生後期初頭の天王山式期の深鉢片、古墳時代前期中葉、後葉の土師器甕、

壺、高杯、鉢が出土している。平安時代は土師器、黒色土器、須恵器がある。

平安時代の須恵器11点、土師器1点には墨書土器が確認され、土師器の墨書は不明であるが、

須恵器には「φ」「光」らしい文字が記載され、墨書は佐渡産、在地産須恵器の区別なく存在する


ことから、本遺跡で何らかの意味あいが考えられるという。

水田畦に打ち込まれた木製杭の年代測定は11世紀中~13世紀初頭で、

当該期に帰属する遺物は1点の土師器有台碗が出土しているのみで、

水田遺構という性格から当然であるが、水田のおよその年代観を把握することができた。

今回の調査で集落の中核部分は検出されなかったが、周辺にその中心があるものと思われる。



引用参考文献
(2006)「家ノ内遺跡発掘調査報告書」新発田市教育委員会

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先述の江上館(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/31025603.html)の北郭の東北隅に

権現様と呼ばれる場所がある。そこには湯殿山の近現代の石塔と中世板碑がある。

中世板碑は花崗岩製で力強くバン・大日如来とその下に蓮台が薬研彫りで刻まれている。

作風から南北朝時代のものと考えられている。

江上館は中条氏の居館で、丑寅方向(東北方向)の鬼門封じの意味があるようである。

権現様は後世に本来の江上館の鬼門の意味合いが薄れ、

近現代に湯殿山の代参講が盛んになり山形県の湯殿権現神社に対する信仰に由来すると思われる。



鬼門

中国の東北方向に鬼が棲んでいるという思想で、邪気や穢れを祓いをのぞくという考えに由来する。

鬼門は中国の2世紀頃の「東方朔」(とうほうさく)にある。6世紀代の道教経典「山海教」にも

東北の度朔山の東北に門がありそこから鬼が出入りするとあり、その鬼は疫神とされる。

それを追い払う民間呪術が古代中国で毎年12月1日の行われていた。

「平家物語」にも「この日域の叡岳比叡山も帝都の鬼門にそばたちて、護国の霊地なり」


と記されている。


世上、丑寅(東北)、未申(西南)の方向の鬼門に便所を忌み嫌う慣わしがある。

どうしてもそこに建てなければならない時、「丑寅未申鬼門金乃神大明神」と崇め

「ここに建てることをお許しください」と断れば問題ないという。(金光大神御理解集)


引用参考文献

小野田十九(平成11)「阿賀北遺石志」
豊島泰国(1999)「日本呪術全書」原書房

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胎内川扇状地の扇端にある。奥山庄中条領に属する。

一辺120mの方形単郭で土地更正図で幅20mの堀が巡っていた事が窺がえる。

現況は畑地、宅地、水田で奥山庄最大の方形居館である。

「三浦和田中条文書」に応永末年の応永の大乱

における和田房資が阿賀北の諸将の離反にあい「居館於引河間之城仁取籠」とあり、

本居館を「河間の城」とする意見がある。

小泉蒼軒の「越後史草稿」に天正の頃、新館宋五郎が在館し、

新発田合戦の際に新発田方に滅ぼされたとあるという。

館跡周辺に「盾ノ北」「盾ノ東」「盾ノ南」「盾ノ西」の地名がある。

居館跡の道路脇に「鮎川掃部頭の碑」(後述する予定)がある。



写真(新館付近の堀跡)

引用参考文献
「中条町史」資料篇1巻 考古・古代・中世

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五頭連峰西麓の陣ヶ峰の南端付近折居川右岸の女堂集落にある。

地方史によれば、千坂親茂の居館と考えられている。「館小路」、「花立」の地名が残る。

北側台地上にある神明神社が物見台であったという言い伝えがある。

現在居館跡は荒地、宅地化し、土塁の一部が残る。

土塁の内側にあたる宅地は周囲の水田より1.5m程高い。

千坂氏は慶長3年(1598)上杉景勝会津移封に伴って米沢に行ったが、

その後越後に戻り阿賀野市山崎金峰山西野坊の弟子となり、

慈性院と称し母衣王神社、ニ石神社に仕えたという。

参考
対馬守。鉢盛城主。千坂氏は越後守護上杉氏の直臣で、文明から明応年間にかけて

千坂対馬守実高が上杉氏の奉行職であった。

永禄二年(1559)十月に上洛していた上杉謙信が帰国すると、

諸将は太刀を献上して祝賀したが、千坂氏も太刀を献上している。

天正三年(1575)・同五年(1577)の動員名簿に景親の名が見え、『文禄三年定納員数目録』 に

よると知行高は二千百七十六石で、伏見御留守居役である。文禄四年(1595)、

伏見普請総奉行。慶長三年(1598)の上杉氏会津移封に従い大沼郡のうち五千五百石を知行した。


その後は徳川氏との和睦のために奔走。慶長八年(1603)には米沢藩初代江戸家老に就任している。

写真(土塁)(居館付近)

引用参考文献
平成15年「笹神村史」資料篇1  原始・古代・中世 笹神村
戦国武将列伝(http://frontierside.cool.ne.jp/jwa/retsu_index/retsuden/ti_01.shtml

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五頭連峰より流出する折居川と大荒川は同連峰の西麓に連なる

低丘陵地の真光寺山の南端と北端を抜けて遺跡の東端を流れ

新潟平野の福島潟に流入する。本遺跡は五頭連峰から流出する中小河川の自然堤防上に立地する。

旧笹神村が計画した村道発久山倉線改良工事に伴い笹神村教育委員会が主体となり、

昭和63年、平成11年の2回の調査が行われた。

1977年に楢崎氏により異形横瓶(皮袋形横瓶?)が

紹介され(楢崎彰一1979「世界陶磁全集3」小学館)、早くから注目された遺跡である。

2回の調査で多量の須恵器、土師器、他に木製品が多量に出土している。

中でも延暦14年(795)年号記載の木簡、古代職業軍人の「健児」(こんでい)記載木簡が出土し

一般集落と異なる国衙関連の官衙的要素の遺跡と考えられている。

出土土器は8世紀後半から9世紀のもので、福島県大戸窯で特徴的に見られる

頚部の付け根に突帯が巡る長頸瓶が1点出土している。在地では

馬上窯跡(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/8273871.html)で

同様のものが焼成されている。他に「万」「九字切りと思われるもの」「寺」「V」「三」「八」

「水人」「山」「十」「得」「田」などの墨書土器が出土している。


墨書木簡
  漾 〇扱邵黔錝て
  ×  卯日 六月朔丙申日
  ×  乙末日

◆ 漾 ̄κ椴稜芝〃
    返抄
    四
 九月廿日磯部廣人
ぁ、□□◆粉曚)
ァ、□▲沺癖か)□□
Α、◆併舛)食□  人人大大□
А 漓◆福    泡⊂?饕躑弌
─〃鮖冝伹髻/戎幣綵苗昌?_反猷箱


本遺跡出土遺物の内容から推測の域を脱し得ないが、本遺跡の性格について諸説ある。


「健児」記載の木簡については、選ばれた兵士で、それまでは一般農民が軍団の兵士であった。

兵隊としての技術、能力に劣る、農民の負担増から各地で選抜された人を教育、訓練して

専門兵士にしようとした。それが健児制度である。この制度は何度か制定されては途絶えたりした。

最後の延暦11年(792)諸国の兵士を廃止して越後国に数百人規模の選抜された兵隊が置かれた。

その兵隊達の任務は国の施設、それも国府そのもの、兵庫や鈴倉の武器庫護衛が主な任務であった。

本遺跡出土の木簡は「健児が解し申す進上宿直の事」とあるように健児がこの時期の役所として

宿直する時必ず届け出る必要があった。これは都でも同様であった。本遺跡の木簡は健児が宿直した

際に届けでた時の札であるという。それでは、健児が何を警護していたのだろうか?

平川氏は本遺跡の東側丘陵に散在する製鉄の遺跡があり、武器庫が古代笹神にあってそれらを

警護していた可能性があるという。恐らく当時すでに河川の水上交通が発達し福島潟から外洋に

通ずる内水面交通要衝に本遺跡や他に

曽根遺跡(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/9445849.html)が有機的にリンクし

国の重要な拠点になっていたのではないだろうか?

引用参考文献
平成13年小林昌二他「前近代の潟湖河川交通と遺跡立地の地域史的研究」新潟大学人文学部
1991「発久遺跡」笹神村教育委員会

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