2006年09月

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加地城大手口に当たる大沢の出口付近、加地城の西麓の旧今泉川右岸に面した段丘上に立地する。最近この周辺で幾つか中世の遺物散布地が確認されており、加地城とも近距離である事から,
何らかの関連が考えられる。本遺跡から珠洲焼、土師器(中世?古代?どちらか細片で判断できず)、瀬戸美濃焼、越前焼、鉄塊系遺物(写真下)、近現代陶磁器が確認できた。鉄塊系遺物は1点だけであるが、磁石には反応しない。恐らく小鍛冶によるものと思われるが、鍛造剥片や粒状滓など確認できなかった。今泉川は江戸時代の瀬替工事により流路を大きく変え、現在は坂井川へ流されている。以前は加地城下を流れ旧紫雲寺潟に流れていた。
(写真上・・・遺跡遠景)(写真中  旧今泉川の名残りをとどめる川・・・・以前はもっと大きかったのか?)

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先述の能化山の塚に南に隣接して伝・水間氏の館跡がある。周囲より僅かに高く、9世紀中頃の須恵器で折縁坏や佐渡産無台坏、甕が確認されており、中世では珠洲焼摺鉢(口縁内面に波状文があり珠洲焼編年佐鋕△)、越前焼、瀬戸美濃焼などがある。石製品では温石と思われるもの,近現代陶器が確認できた。一部で、堀跡と思われる細長い田があるが詳細は不明。

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旧豊浦町下中ノ目の北側、水田が広がる沖積地に島状の塚がある。塚の部分だけ木が生い茂り塚の脇には明治18年建立の石碑がある。初めての人にもわかりやすいように、白い案内板がある。塚からの遺物は確認されていない。伝承によれば、塚の南には隣接して下中ノ目館があり、その主の水間則長とその重臣・細野源右ェ門を葬ったという。能化山の地名は、この場所だけでなく新潟県村上市にも例があり、宗教的な地名であり、菩薩や仏をさす場合がある。案内板に水間氏は天正15年の新発田合戦の際新発田氏に興し戦死したとある。

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加治川右岸、早道場の北側に広がる水田に里館の推定場所がある。明治の更正図によって方形区画らしい場所が確認できる。加地氏の加地城が東約2kmにあり、関連が考えられる。現在は圃場整備により旧地形が改変され往時をしのぶ事は出来ない。遺物等は確認されていない。早道場の東端付近に箱館跡が近接してある。周辺に、館ノ前大ヤシキの地名がある。

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二王子岳を水源とする板山川の右岸、標高60mの開析扇状地に立地する。昭和42年県道工事に伴って縄文土器が確認され、新発田市教育委員会が主体となり発掘調査が行われた。調査面積は小面積であったが縄文時代後期末から晩期前葉の土器が主体の遺物が多数確認された。遺構は、円形石組炉、土器は甕、鉢、浅鉢、小形壷、注口土器、香炉形土器、多孔底土器など器種も豊富である。文様は瘤を貼り付けたもの、帯状入組文、玉抱三又文、磨消縄文が施文されたものがあり、大洞B式の範疇の土器である。石器は、石鏃、石錐、横形石匙、打製石斧、磨製石斧、石錘、石皿、クボミ石、小玉、垂玉、砥石などがあり、石鏃や石匙にはピッチが着いたものがある。
引用参考文献
昭和58年『新潟県史 資料編1 原始・古代一考古編』新潟県

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