2006年05月

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JR白新線の佐々木駅の北400mに新発田川が東から西へ流れている。先日その新発田川の写真撮影に行った。満々と水がゆっくり流れ、水量が多かった。この河川があるおかげで、今まで水害から新発田が守られた事があった。遺跡がこの下に眠っていた事など、この川を作るまで、だれが予測しようか?
平成10年頃、佐々木のkさんが、河川改修工事の掘削時川底と同じ深さで多量の貝が埋もれているの発見。以前から考古に興味を持っていたkさんは、直ぐ貝塚である事に気がついて新発見の遺跡となった。工事は矢板で囲んだ中を排水しながら掘り下げる工法を取っていた。その後、貝層が見つかり、貝の中には骨もあったという。骨は拾わなかったという。貝層の近くには二の腕位の材木があったという。その下から土器を採集したという。新潟平野4m地下からの発見された遺跡だ。その後、遺跡部分は改修され川底に沈んでしまった。有識者により採集した貝や土器片を見てもらい縄文時代中期後葉大木9式、10式、後期の三十稲場式などの土器片である事が判明し、おおよそ縄文中期後葉~後期初頭までの幅がある事がわかった。貝はシジミとカワニナであった。
太平洋側と比較して日本海側の貝塚は比較にならない程少ない。新潟県の貝塚は貝塚遺跡、刈羽貝塚、そして轟貝塚。佐渡では藤塚貝塚、堂の貝塚、三宮貝塚があるが轟貝塚は佐渡を除く新潟県3番目の発見で戦後初の発見である。轟貝塚ではカワニナが出土している事から、シジミも淡水性の可能性が高く、河川や湖沼があったと推定できるという。(写真・・現在の遺跡付近)
引用参考文献
田中耕作(2001)「縄文中・後期新発田市轟貝塚の発見」『北越考古学 第12号』北越考古学研究会

註)大木式土器(だいぎしきどき) 縄文土器の形式名。宮城県七ヶ浜町要害大木囲貝塚出土土器を標識とする。文様構成から前期として1式,2a式,2b式,3式,4式,5式,6式、中期として7a式,7b式,8a式,8b式,9式、10式に分けられる。東北南半を中心に盛行する土器群。
註)三十稲場式土器(さんじゅういなばしきどき) 縄文土器の形式名。新潟県三十稲場遺跡を標識とする。八幡一郎により設定された縄文時代後期前半の土器形式。新潟県~福島県会津地方を中心に分布する。類似形式として気屋式がある。器種は深鉢、浅鉢、蓋からなる。
引用参考文献
戸沢充則編(1994)「縄文時代研究事典」東京堂出版

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貝屋窯跡は新発田市貝屋(旧加治川村)にある。櫛形山脈西麓の貝屋川によって形成された解析谷の谷奥付近にある。現在は、土取の為に全壊した。昭和56年頃、付近の遺跡踏査をしているとき、地元の郷土史家、故Tさんが山の中に「キトス」と言われている所に古代の須恵器が出るところがある。という話を聞きつけていた。当時、その場所は山林で特定できずにいた。ある日、その付近の遺跡を踏査している時、1人の中学生に何気なく聞く。「遺跡の事調べてるんだけど、何か知らない?」と聞くと「山の中に、掘ると青い土器が出るところがあるよ!!」と返答。その子にお願いして、案内してもらった。枯れ沢の中を薮を漕ぎながらくっついて行くと、木の株の下に話のとおり土が崩れた場所があった。一つでも土器片があれば、ここが遺跡の証拠になると思い2人で探す。少しすると、一片の無台杯の小破片が一つ枯葉の下から出てきた。沢の中で須恵器片を見つけるとすぐに須恵器窯跡かなと直感した。この場所が前から聞いていた「キトス」かな?すぐ近くには、土取りが行われていた。この土取りが進めば、遺跡が破壊されると思い、中学生と別れた後当時の村教育委員会に連絡、その後、土取りの前に、この場所を破壊される前に発掘する必要が生じ、調査が行われた。その結果、須恵器窯一基が見つかり、他に少なくとも3基は存在したとされる。出土遺物は、杯蓋、有台杯、無台杯、壺蓋、短頸壺。長胴壺、長頸壺、横瓶、甕、鉢、長甕、小甕、鍋、甑等が出土した。横瓶は100個体以上出土した。窯は半地下式無段登窯であった。貝屋窯跡は8世紀末頃の窯跡と考えられている。

引用参考文献
(2004)「越後阿賀北の古代土器様相」新潟古代土器研究会
(1982)加治川村文化財調査報告(1)「貝屋須惠窯跡」加治川村教育委員会

古代沼垂郡の須恵器窯
阿賀野川以北の須恵器生産は8世紀中頃から9世紀中頃まで活発に生産され8世紀末~9世紀初頭位に最盛期を迎える。その後、9世紀中頃より佐渡小泊産の須恵器が越後全域に流通するようになると在地の須恵器生産は衰退。佐渡産須恵器に置き換わる。古代沼垂郡の須恵器窯は安田、笹神、豊浦の五頭連峰西麓、二王子岳西麓、櫛形山脈西麓(貝屋窯跡含む)、黒川村などで窯跡が確認でき、国内有数の須恵器生産地である。(地名は合併前の地名)
特に口縁が受け口状に折れ曲がる有台杯や、高台をつけた台付横瓶は古代沼垂郡中心に生産されたと考えられている。(台付横瓶は県北を中心に消費遺跡や生産遺跡に濃密な分布を持つが、頚城地方でも生産地がある可能性が指摘されている。)
胎土は粗く、白い石粒を多く含むのが在地産須恵器の特徴でもある。
(上の写真、貝屋窯跡・・・現状 土取り全壊)
(貝屋窯跡 窯内状況)
(下の写真・・・加茂市馬越遺跡出土の台付横瓶・・・提供=加茂市民俗資料館より写真掲載の快諾をいただきました)
引用参考文献
永井いずみ(2005)「新潟県内出土の台付横瓶」『新潟考古学談話会会報』第30号

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夕方、新発田市の二王子岳西麓の竹俣氏関連城館と思われる岡塚館に行った。上三光と下三光の舗装された市道に沿い注意して上三光に行くと、左側に二の丸跡とか三の丸跡などと記載の城館跡らしい場所に来る。道路より少し高くなり上部は平坦になっている。土塁が囲む場所がありその場所が本丸らしい。珠洲編年鹸釗14世紀末~15世紀初)位か?珠洲焼片口鉢と越前焼甕片が確認された。恐らく、前に、東城館の14世紀末の遺物が確認できたので越前焼があれば東城館より岡塚館の方が後かな?いや、待てよ。数個だけの遺物から館の存続時期を決めるのは危険だな。心の葛藤が始る。本格的な調査でもしないと恐らく本当のことはわからないだろう?瓷器系の越前焼は須恵器系の珠洲焼の流通圏を駆逐し、16世紀頃には珠洲焼は姿を消し、最後には越前焼に置き換わる。そうなると、三光館や宝積寺館はどうなるのか?謎が謎を呼び更に足を運びたくなる。土塁や堀の写真を撮影し土塁を越えて掘に下りようとしたときである。運動靴を履いていたので土塁の法面で滑って尻餅をつく。おまけに尻餅をついた場所は竹の切り株。「いつつ!!」と唸る。すぐ、こんな時でも、当時は?と推理を巡らした。ここは竹林なのでこの竹を斜めに切って上に立てれば、きっと敵が攻めて来て尻餅をついた時、かなりの傷を負うに違いない。そこで家の本を調べてみれば、あった。「逆茂木」なんか、似ているな!!やはり当時も尻餅をついたんだと思う。ひりひりする尻をかばいながら、北側の田んぼを眼下に臨む場所に来ると、虎口と思うような場所で土塁が切れ、升形状の浅く方形に窪んだ場所を見つける。今の舗装道路と反対の北側に入口があったのかな?と想像を膨らむ。痛かったけど想像していると楽しい遺跡巡りだった。(土塁と空堀・・写真中段)’写真下段、北側虎口と枡形?)

(参考)
市道拡張工事で遺跡の一部が削られる事になり、平成9年、新発田市教育委員会が主体になり、工事部分の発掘調査が行われた。その結果、縄文時代・古代・中世・近世の遺物が出土し中世後期が主体を占める。近世は近世初頭と幕末の遺物である。遺物の多くは、15世紀~16世紀前半で、越前焼、瀬戸美濃焼が目立つという。16世紀前半頃、隣接する14・15世紀代の遺物が中心の宝積寺館の16世紀代の遺物が減少する時期で、岡塚館は後続する館の候補と見る事もできるという。(註)

引用参考文献
(1998)新発田市埋蔵文化財調査報告第19「市道関係遺跡発掘調査報告書」『山王遺跡1・2次調査 松橋遺跡 岡塚館跡』  新発田市教育委員会
2000鳴海忠夫「越後山城通信」第7号

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新発田市の北東部に位置する、菅谷地区は櫛形山脈、二王子山系に囲まれ山間を流れる坂井川によって形成された谷底平野がある。寺内館跡は寺内川と坂井川の合流点に面して位置し、館跡に国道290号線が横切っている。5月末になれば、周辺の水田に田植えも終わり、緑色の水稲が水面に移り、背景の山々とマッチして気持ちがいい。暇つぶしに寺内館跡を探訪した。現状からは、遺構も確認できず、戦国時代の館があったとは思えない。
工事、開発計画が遺跡でありその範囲に遺跡が含まれる為、平成9年に新発田市教育委員会が主体で発掘調査が実施された。寺内館は、明治時代の図面から「館」の付く地名と、掘と思われる区画が確認でき管見で紹介され周知化されていた。寺内館に関連する、城歴、館主など詳細は一切不明であるが、当地は加地庄佐々木氏の勢力下にあり、鎌倉時代には菅谷寺が創建されているので何らかの関連考える必要性があるという。発掘調査の結果、掘に囲まれた一辺74mの方形居館跡が検出された。工事範囲から外れる場所は調査対象から外された。出土遺物には時間幅があり、縄文時代、弥生時代、古代の遺物が少量出土している。主体は中世で13世紀頃と15世紀後半~16世紀前半頃の2時期にピ-クがあるという。出土品の中には高麗青磁、白磁暗花文小杯など中世前期の優品を含むが、権威、財力を誇示するような威信材と呼べるものは少ない。饗宴に使用する、土師器皿や茶道具の量も少ない。したがって国人領主の被官、庶子などの在地小領主的な居館と考えられるという。13世紀代の遺物は充実しており、中世菅谷寺が営まれた時期と一致する。遺構は掘、掘立柱穴群、竪穴建物、柵などで中世後期の可能性があるという。方形居館の場合、地形等の制約がない限り南辺に虎口が設けられる例が多く、明治の地籍図でも土塁と見られる区画が南辺中央で途切れる場所があり、虎口が存在していた可能性があるという。承元4年(1210)幕府が菅谷寺に所領を寄進する目的で付近に領地を探すよう執権・北条義時に命じた記録があるという。・・(阿部1980)新発田市史 上巻所収

引用参考文献
(1999)新発田市埋蔵文化財調査報告書『寺内館発掘調査報告書』新発田市教育委員会

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新発田市市街地西部に、猿橋地区がある。

今は、すっかり住宅地や商店街の中心地になり、車の往来が激しい。まさに、

車と人の戦国の世と言っても過言ではない。戦国時代の往時を偲ぶことはできないが、

現在の猿橋中学校付近に、戦国時代、上杉氏が割拠していた頃、猿橋氏という

殿様が居館を構え新発田城のの西の守備についていた話など、今の様子からは窺がうことはできない。

猿橋は、中世には「加地庄冨塚条」と呼ばれていた。

『鶴ヶ岡神主家伝文書』に地名の記載があるという。冨塚条は、冨塚、猿橋を包含した場所である。

現在でもその町名が残っている。冨塚条は、加地氏の開発により発展し、

西方の佐々木まで拡大進展したという。猿橋氏は加地氏の血縁関係の政利氏が初代猿橋氏にあたり

猿橋和泉守は8代目である。

天正6年上杉謙信が亡くなると後継争いの御館の乱が起こり、新発田因幡守重家は大いに戦功をあげた。

合戦が終結し、論功行賞の結果に不満を持った新発田因幡守重家は、

上杉影勝と対峙し合戦となり、新発田周辺で激しい戦闘になった。

歴戦の兵を持つ上杉勢にはかなわず天正15年(1587)ついに、新発田因幡重家は自害。

新発田城は落城する。このとき、新発田の西方の守りについていた猿橋和泉守は、上杉軍に内通して、

新発田城の猿橋口から上杉軍を引き入れる代わりに、命乞いをした。

城内に軍勢が入るとたちまち新発田城は混乱し、

遂に新発田氏は自害し新発田城は落城してしまう(註1)。

今から考えれば、戦争は悲惨であって命乞いをした猿橋氏の気持ちも解からないでもないが、

その後戦闘が終結し猿橋氏の処罰はどうだったのか、知るすべもない。


猿橋氏の居館跡と思われる場所は、はっきり断言してピンポイントで伝える事はできないが、

推定場所として現在の中学校付近ではないかと思う。それは、以前から伝えられている場所であるが、

住宅地の為、遺構などは確認できないが、5.6年前に偶然、

新潟市の公共機関に当地の明治期の古い図面が保管されている事がわかり、

閲覧する機会があった。現在の地図を、その古地図に重ねると現在地と対比でき、

方形の居館らしい区画があることがわかった。居館跡?の一部は、

後世の短冊形の都市区画により切られているものの、

古地図から推察して新発田川の自然堤防上に作られた居館らしい。

「館」のつく地名も残る。ただし、あくまでも推測なので断定はできないが???

これからも謎が謎を呼びそうである。写真は居館跡と思われる付近にある神社。
参考文献
飯田素州(2005)「越後加地氏新発田氏の系譜」新潟日報事業社

参考
(昭和11年)温故の栞
猿橋の古城跡
同郡(北蒲原郡)豊田庄猿橋の古城跡は、新発田の市街に続き平城なり、

当時入り船の城と名け沼を要害に構ふ、佐々木盛綱の一族猿橋監物居城とす、

後年上杉家に属し氏を庄田と改む、同郡(北蒲原郡)飯野の城主長尾家と所領界目の争論より、

私に戦端を開く、故に弘治年中両家共国を逐れしと云ふ。

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