JR白新線の佐々木駅の北400mに新発田川が東から西へ流れている。先日その新発田川の写真撮影に行った。満々と水がゆっくり流れ、水量が多かった。この河川があるおかげで、今まで水害から新発田が守られた事があった。遺跡がこの下に眠っていた事など、この川を作るまで、だれが予測しようか?
平成10年頃、佐々木のkさんが、河川改修工事の掘削時川底と同じ深さで多量の貝が埋もれているの発見。以前から考古に興味を持っていたkさんは、直ぐ貝塚である事に気がついて新発見の遺跡となった。工事は矢板で囲んだ中を排水しながら掘り下げる工法を取っていた。その後、貝層が見つかり、貝の中には骨もあったという。骨は拾わなかったという。貝層の近くには二の腕位の材木があったという。その下から土器を採集したという。新潟平野4m地下からの発見された遺跡だ。その後、遺跡部分は改修され川底に沈んでしまった。有識者により採集した貝や土器片を見てもらい縄文時代中期後葉大木9式、10式、後期の三十稲場式などの土器片である事が判明し、おおよそ縄文中期後葉~後期初頭までの幅がある事がわかった。貝はシジミとカワニナであった。
太平洋側と比較して日本海側の貝塚は比較にならない程少ない。新潟県の貝塚は貝塚遺跡、刈羽貝塚、そして轟貝塚。佐渡では藤塚貝塚、堂の貝塚、三宮貝塚があるが轟貝塚は佐渡を除く新潟県3番目の発見で戦後初の発見である。轟貝塚ではカワニナが出土している事から、シジミも淡水性の可能性が高く、河川や湖沼があったと推定できるという。(写真・・現在の遺跡付近)
引用参考文献
田中耕作(2001)「縄文中・後期新発田市轟貝塚の発見」『北越考古学 第12号』北越考古学研究会
註)大木式土器(だいぎしきどき) 縄文土器の形式名。宮城県七ヶ浜町要害大木囲貝塚出土土器を標識とする。文様構成から前期として1式,2a式,2b式,3式,4式,5式,6式、中期として7a式,7b式,8a式,8b式,9式、10式に分けられる。東北南半を中心に盛行する土器群。
註)三十稲場式土器(さんじゅういなばしきどき) 縄文土器の形式名。新潟県三十稲場遺跡を標識とする。八幡一郎により設定された縄文時代後期前半の土器形式。新潟県~福島県会津地方を中心に分布する。類似形式として気屋式がある。器種は深鉢、浅鉢、蓋からなる。
引用参考文献
戸沢充則編(1994)「縄文時代研究事典」東京堂出版
平成10年頃、佐々木のkさんが、河川改修工事の掘削時川底と同じ深さで多量の貝が埋もれているの発見。以前から考古に興味を持っていたkさんは、直ぐ貝塚である事に気がついて新発見の遺跡となった。工事は矢板で囲んだ中を排水しながら掘り下げる工法を取っていた。その後、貝層が見つかり、貝の中には骨もあったという。骨は拾わなかったという。貝層の近くには二の腕位の材木があったという。その下から土器を採集したという。新潟平野4m地下からの発見された遺跡だ。その後、遺跡部分は改修され川底に沈んでしまった。有識者により採集した貝や土器片を見てもらい縄文時代中期後葉大木9式、10式、後期の三十稲場式などの土器片である事が判明し、おおよそ縄文中期後葉~後期初頭までの幅がある事がわかった。貝はシジミとカワニナであった。
太平洋側と比較して日本海側の貝塚は比較にならない程少ない。新潟県の貝塚は貝塚遺跡、刈羽貝塚、そして轟貝塚。佐渡では藤塚貝塚、堂の貝塚、三宮貝塚があるが轟貝塚は佐渡を除く新潟県3番目の発見で戦後初の発見である。轟貝塚ではカワニナが出土している事から、シジミも淡水性の可能性が高く、河川や湖沼があったと推定できるという。(写真・・現在の遺跡付近)
引用参考文献
田中耕作(2001)「縄文中・後期新発田市轟貝塚の発見」『北越考古学 第12号』北越考古学研究会
註)大木式土器(だいぎしきどき) 縄文土器の形式名。宮城県七ヶ浜町要害大木囲貝塚出土土器を標識とする。文様構成から前期として1式,2a式,2b式,3式,4式,5式,6式、中期として7a式,7b式,8a式,8b式,9式、10式に分けられる。東北南半を中心に盛行する土器群。
註)三十稲場式土器(さんじゅういなばしきどき) 縄文土器の形式名。新潟県三十稲場遺跡を標識とする。八幡一郎により設定された縄文時代後期前半の土器形式。新潟県~福島県会津地方を中心に分布する。類似形式として気屋式がある。器種は深鉢、浅鉢、蓋からなる。
引用参考文献
戸沢充則編(1994)「縄文時代研究事典」東京堂出版