新潟市西部の弥彦山が大きく見える砂丘上に立地する。稲島方面に張り出す砂丘上に布目集落があり集落の外れに布目遺跡が立地している。遺跡は昭和20年代に掘削した際に発見されたもので、縄文前期初頭の羽状縄文土器群が出土し「布目式土器」と呼ばれている。尖底土器から平底土器への過渡期に属する土器群と考えられている。踏査の際、畑地にチップが落ちていたので、遺跡と確認できた。
布目式土器(日本土器事典 参考)
当初、花積下層式、上川名Ⅱ式と関連を持つ型式とされたが、その後、新潟大学で調査を行い良好な資料が得られ実態が明らかになった。器形は、深鉢の単一器種で胎土には植物繊維が含有する。底部は尖底、平底の2種認められ多くは尖底で占められている。底部からやや膨らみをもって立ち上がり緩く外反しながら口縁部へ至るのが一般的のようである。口縁は平縁と波状がある。文様は結束羽状縄文を盛行し、他に斜縄文、網目状撚糸文、ループ文の多彩な縄文がみられる。布目式は東北南部を中心に分布し、桂島式との強い近縁関係が指摘される。
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新潟県内の布目式土器の出土遺跡は、本遺跡のほかに村上市谷内遺跡、糸魚川市小出越遺跡、同市山岸遺跡、村上市弥三郎遺跡、同市アチヤ平中・下段遺跡、同市下ソリ遺跡、同市黒淵遺跡、新潟市南赤坂遺跡、阿賀町大谷原遺跡、長岡市大武遺跡、同市キザワシ遺跡で類例がある。

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中ノ口川左岸の自然堤防上に吉江集落がある。吉江は上杉家家臣の吉江氏の本拠地で、永正10年(1513)8月3日に長尾為景知行宛行状に吉江織部佐景宗が知行を認められた。字中村付近に居館を構えたと伝えられるが、現況は宅地や公園、耕作地となっていて旧規不詳である。伝承では、高念寺から東方約100mの旧大庄屋の通称・本田屋敷と呼ばれている場所で、1辺80mの堀が巡っていたとも伝える。上杉謙信の家臣で、吉江宗信の孫景泰は中条藤資の娘を娶り、中条家を継いだ。謙信の死後の御館の乱では、景勝方につき織田勢の越中攻めで魚津城を守備し、一族が城の陥落とともに自刃したが、唯一生き残った長忠が家督を継ぎ、慶長3年(1598)の上杉移封に伴い吉江館も廃城となった。

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沖庭神社への遊歩道入口
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途中にある池
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沖庭山の巨岩
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気持ちの良いブナ林
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ロープが付けられた急斜面を慎重にのぼりきると拝殿に到着
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拝殿
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懸仏鏡面か?背面の円形杉板に打ち付けられた銅版

沖庭神社は新潟県―山形県境付近、荒川右岸の山間地の旧米沢街道・八つ口道沿い現在廃村になった越戸~沖庭山~小渡にある。
急峻な岩山の痩せた沖庭山の巨岩上に鎮座している。直下を通る峠は、中世には山形県小国町から新潟県側に抜ける峠道で、人や物資の往来が盛んであった。沖庭神社は新潟県関川村の光兎山信仰と深いつながりがあるという。光兎山は、貞観3年(861年)慈覚大師開山と伝え、山頂に近年まで金銅仏が祀られていた。そのレプリカが「せきかわ歴史と道の館」に常設展示されている。平安時代作とされているが、自分は鏡面から着脱可能な懸仏御正体の類で、平安時代より時代が下がり鎌倉時代末の作と考えている。類似する懸仏は、田上町の兜守観音で類例がある。現在、その金銅仏は秘仏で山頂からおろされ関川村の光兎神社の本尊として他見無用の秘仏となっている。その金銅仏の一体を慶長3年(1598年)、上杉国替の時に沖庭神社に勧請した。沖庭神社は信者に作神様として信仰され、女人禁制で「初お山」として、男子15歳になると初詣でに沖庭神社まで行ったという。拝殿に木彫りの阿弥陀仏が納められているという。伝承には文永7(1270)塚原兵庫守建立とされている。拝殿は34m四方で、周囲は断崖で、よくもこんな険しい岩山の頂上に神社を建立できたものと感心する。霊山・光兎山~沖庭山~小国町は峰続きで小国側では修験寺院が多く、大日寺(舟渡)、大蔵院(若山)、密蔵院(長沢)などは、同じ修験道を思わせるものがある。

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